鎌倉府(かまくらふ)は、南北朝時代、京都に成立した室町幕府が前代鎌倉幕府の本拠地の鎌倉及びその地盤であった関東10か国を掌握するために設置した機関である。貞和5年(1349年)から室町時代中期の享徳4年(1455年)まで、約100年間存続した。初代将軍足利尊氏の次子基氏とその子孫が長を世襲し、鎌倉公方と呼ばれる。これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。その他に評定衆・引付衆・侍所・政所等、幕府に準じた機構を有していた。 後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。 管国は関八州8か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐で、1392年に陸奥・出羽が追加された(ただし、1400年に奥州探題の設置によって陸奥・出羽両国に対する鎌倉府の権限が事実上削減される)。鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏はやがて対立し、1439年の永享の乱では、関東管領・上杉憲実、幕府・足利義教と戦った第4代鎌倉公方・足利持氏が敗死し、鎌倉府は長官が一時不在となった。 その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方となるが、享徳の乱で室町幕府・上杉氏と再び対立。上杉氏援軍の今川範忠勢に鎌倉を占領されると、本拠を下総・古河城にあらため、鎌倉府は古河公方・成氏の古河府へ継承された。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(義教の子)を派遣したが、上杉氏との確執から伊豆の堀越御所に根拠を定め(堀越公方)、源頼朝の時代から東国政治の中心だった鎌倉には入れなかった。 元弘3年(1333年)12月、足利尊氏の弟・直義は相模守に補任され、成良親王を奉じて鎌倉に下向、鎌倉府の前身となる鎌倉将軍府が成立した。その背景としては、当時の鎌倉は尊氏の子・義詮を中心とする足利勢の占領下にあったが、公式には認められておらず、新田義貞の巻き返しもあったため、鎌倉幕府滅亡後の関東が不安定な状態だったことがある。鎌倉将軍府の設置により、尊氏は鎌倉占領の合法化に成功する[1][2]。 後醍醐天皇は中央集権を志向していたため、このように強大な権限を持つ広域地方行政機関には消極的だった。しかし、関東で勢いを増す尊氏を牽制するために、北畠顕家に対し、義良親王を奉じて、広域地方行政機関・陸奥国府を奥羽(現在の東北地方)に設けることを認めると、尊氏はこれを逆手にとって、関東にも鎌倉将軍府の設置を認めさせたとされ、通説となっている[3]。
概要
鎌倉府の歴史
前身・鎌倉将軍府