鎌倉幕府
中央政府
源氏紋・笹竜胆
概要
創設年元暦2年(1185年)、建久3年(1192年)等(諸説あり※備考参照。)
解散年元弘3年/正慶2年(1333年)
対象国 日本
政庁所在地相模国鎌倉
(現 : 神奈川県鎌倉市)
代表征夷大将軍(鎌倉殿)
(河内源氏、藤原氏、皇族)
執権(北条氏)
得宗
機関
中央執権
政所
侍所
問注所
評定衆
地方守護
地頭
六波羅探題
備考
※ 幕府創設年について、治承4年(1180年)、治承7年(1183年)、元暦2年(1185年)、建久元年(1190年)、建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。
頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。 『吾妻鏡』によれば1180年(治承4年)12月12日に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年(1185年))で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる公文所(のちの政所)開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で幕府は諸国の治安維持を担当したものの、当初は特に西日本では朝廷およびその出先機関である国府との二重支配状態だったが、次第に範囲を拡大。
概要
成立過程の概略