鎌倉城
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神奈川県
鎌倉城の切岸といわれた「お猿畠の大切岸」。石切場だったことが解り疑問視されている。
城郭構造城郭都市?異説あり
天守構造なし
築城主源頼朝
築城年1180年(治承4年)?
主な城主鎌倉幕府将軍
廃城年不明
遺構切岸?異説あり
指定文化財未指定
埋蔵文化財
包蔵地番号鎌倉市No.87[1][2]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度19分09.1秒 東経139度32分49.0秒 / 北緯35.319194度 東経139.546944度 / 35.319194; 139.546944 (鎌倉城)座標: 北緯35度19分09.1秒 東経139度32分49.0秒 / 北緯35.319194度 東経139.546944度 / 35.319194; 139.546944 (鎌倉城)
※座標は鎌倉市中心
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鎌倉城(かまくらじょう)は、現在の神奈川県鎌倉市域にあたる中世鎌倉の地を示す呼称。中世当時の史料に見える言葉だが、その解釈には諸説があり、鎌倉全域を軍事要塞=城郭都市と見なしたとする説のほか、そうではなく源頼朝=源氏の「本拠地」を意味する言葉とする説などがある。
「鎌倉城」観の成立

平安時代末期から鎌倉時代初頭にあたる、源氏平氏が争った治承・寿永の乱(1180年-1185年)の頃、九条兼実日記玉葉』の記事として、寿永2年(1183年)10月25日の条に「鎌倉城にいる源頼朝木曽義仲追討のために兵5万を興し」て、同年11月2日の条に「去月5日に鎌倉城を出発した」とあることが知られている[3]。この記事の「鎌倉城」を、土塁堀切切岸などを築いて防御を固めた軍事施設的な「城」の意味で捉え、また鎌倉に現存する人為的な地形改変を城郭的遺構と見て、鎌倉全域を城郭と考える説(または中世人がそう認識していたとする説)が出現した[4]

城郭史的視点で鎌倉城について触れた初期の研究は、戦前の1937年(昭和12年)の鳥羽正雄による「城郭構造の社会・経済的考察」(『歴史教育12-8』※鳥羽 1980『日本城郭史の再検討』に所収)という。ただし鳥羽は、天然の要害地の中にある鎌倉が「鎌倉城」と一部で呼ばれたものの、明確な城遺構がなく、中世鎌倉には有事の際に防御施設を造ることはあっても、常設的な城郭遺構はなかったとする[5][6]

「軍事都市」「城塞都市」的な鎌倉像を印象付けたのは、神奈川県内考古学研究の基礎を築いた赤星直忠の1950年代-1970年代の研究といわれる[4]

赤星は、古都鎌倉は西・北・東の3方を急峻な山地、南を海(相模湾)という天然の要害が囲み、鎌倉七口と呼ばれる切通しを平時の出入口としているが、有事には封鎖して外部からの敵を迎撃する城塞都市であるとして、旧鎌倉町域から極楽寺地区を除く範囲を「鎌倉城」の範囲とした。その具体的な遺構の例として、鎌倉・逗子市境の丘陵にある名越切通(国史跡)の逗子側800メートルに渡ってみられる「お猿畠の大切岸」という切岸状の岩盤露頭を挙げて、これを北条氏三浦氏の侵攻に備えて設けたものとした[7][4]

赤星による軍事的性格を積極的に評価した鎌倉都市像は、石丸熙による研究でさらに進んで、和田合戦以降、城塞都市としての拡張が図られたと推論された[8][4]

1980年(昭和55年)刊行の『日本城郭大系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)も『玉葉』や赤星の論考を引き、鎌倉が当時、地域全体をして城郭と捉えられていたとする[9][10]
批判的見解と諸説

近年、これについて批判も多くあらわれており[11]、岡陽一郎(岩手県一関市博物館骨寺村荘園遺跡専門員[12])は、「切岸」状の岸壁や「堀切」状の尾根開削地、斜面を段切りした「平場」など、鎌倉周囲の山々にあり軍事防衛と関係付けられてきた遺構を考古史料両面から精査した。その結果、それらは家屋や切通しの道・墓(やぐら)・採石場など幅広い用途の生産遺構である可能性が高く、中世の軍事に直結させるよりも、鎌倉時代?近世(あるいは現代)までを通じて連面と行われてきた一般土地利用の所産とみた方が適切なものが多いとした[13]。名越にある「お猿畠の大切岸」などの地形は、鎌倉時代当時に土地造成や、道路の舗装用に周囲の山の泥岩を破砕したものを多用している事例から、石切(採石)場の痕跡と見るべきとする[14]。実際に「お猿畠の大切岸」は、2002年(平成14年)に行われた逗子市による発掘調査で、14世紀?15世紀代の建物基礎等に使用したと考えられる石材の石切場だとわかり、切岸説に疑問が付された[15]

同様の事例としては、JR北鎌倉駅北側の丘陵に広がる「亀井砦跡(鎌倉市遺跡番号No.346)」があり、鎌倉市が策定する遺跡一覧表では遺跡種別を「城館跡」としているが[1][2]、2000年-2001年(平成12-13年)に行われた発掘調査字亀井2018番1外地点)では、丘陵の岩盤から土木・建築石材に使われる「鎌倉石」を板状にして切り出す作業を行った15世紀代と見られる遺構が約604ヶ所検出され、石切場であったことが確認されている(他に弥生時代中期の竪穴建物群や古墳時代終末の横穴墓群も見つかっている)[16]

また、横浜市金沢区朝比奈町鎌倉市十二所とを繋ぐ朝夷奈切通(国史跡)周囲の山々も「朝比奈砦(鎌倉市遺跡番号No.310)」として城塞遺跡とされているが[1]、『太平記』など鎌倉滅亡時の史料には朝夷奈方面(鎌倉北東部)の戦闘の状況やその存在を示す記録がなく[17][注釈 1]、城郭と断定しうる遺構も少ないことから疑問が示されている[18]

また岡は、「鎌倉城」の記述が治承・寿永期の史料にのみ見られることから、当時の京都にいて、鎌倉を見たことの無い公家たちの考える城郭観(軍事色の強い空間)が反映された言葉とする中澤克昭(上智大学教授[19])の説[20]を引用して、この戦乱期に源頼朝が本拠とした場所を理念的に指した表現ではないかと推論する[18]。少なくとも軍事要塞的イメージが大きくなりすぎた「鎌倉城」像は再検討した方よいと指摘する[21]

なお「お猿畠の大切岸」について、鎌倉市側は現在も「切岸」との位置付けで[22]、石切場と確認した逗子市側は、丘陵を削平しきらず尾根が残っているのは、鎌倉を守る防壁とする意図もあったのかもしれないと、推測の域として述べる[15]


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