鎌倉仏教
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鎌倉仏教(かまくらぶっきょう、英語: Kamakura Buddhism)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて新たに広まった日本仏教 の宗派を総称して使用される。奈良、平安時代の旧仏教の鎌倉時代における復興も含めて鎌倉時代の仏教全体を総称して使用される場合もあり明確な規定はない。

そのため新しく広まった仏教の宗派のみを区別して、「鎌倉新仏教」と呼称する場合があり、その場合は、法然浄土宗)・親鸞浄土真宗)・栄西臨済宗)・道元曹洞宗)・日蓮日蓮宗)・一遍時宗)によってはじめられた6宗を指す。

平安時代までの仏教の特徴はあくまで天皇貴族が中心であり地位が高い人だけの仏教であったが、鎌倉新仏教の特徴は「信仰のしやすさ」があり、かつ1052年を末法元年として捉える「末法思想」を背景に、実際に地震、飢饉、疫病が多発し、二度の元寇の脅威があり、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)を行うほど、人々が苦しめられていた時代を背景として、庶民、武家にまで広く広まった。各宗派の特徴は、大きく念仏題目座禅の3つに分けられる。

「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。
概要女人救済をおこなった法然の生涯を描いた絵巻物法然上人絵伝』(国宝

鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗の宗祖が活躍した(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律学問寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。

これに対し、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も奈良時代鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した[1]。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった[1][2]
「新仏教」6宗の概要

「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。

宗派開祖教理の特色支持層
浄土宗法然(源空)
1133年-1212年難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。公家、武士、庶民
浄土真宗
(真宗・一向宗)
親鸞
1173年-1262年師である法然の教えを継承、展開、深化させる[3]。一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。地方武士や農民、とくに下層民
時宗
(時衆・遊行宗)一遍(智真)
1239年-1289年賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。全国の武士・農民
法華宗
日蓮宗日蓮
1222年-1282年法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、その他の経典は未完成もしくは誤りの法であるとして、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。末法無戒を主張し、それを実践したため、日本仏教における破戒を助長した。下級武士、商工業者
臨済宗栄西
1141年-1215年坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士
曹洞宗道元
1200年-1253年ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。地方の中小武士・農民

すなわち、他力本願を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)、天台宗系の法華宗(日蓮宗)、不立文字を旨とする禅宗系の臨済宗と曹洞宗である。

鎮護国家」の思想のもと、律令国家によって保護された奈良時代南都六宗(奈良仏教)が仏教研究者集団としての性格をもち[2]、また、平安仏教においては、学問的能力を必要とした顕教にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする密教にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのに対して、上記の6宗は主として新たに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていった。

国風文化期に隆盛した浄土教にしても、平安時代にあっては、阿弥陀堂建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであったが、それに対し鎌倉仏教は、概して、

易行(いぎょう)…厳しい修行ではない

選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ

専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む

の諸特徴を有するといわれ、特に念仏を重んじる浄土系の浄土宗・浄土真宗・時宗に顕著にみられる。浄土系諸門はみずからを「他力易行門」と称し、禅宗(臨済宗、曹洞宗)の実践する坐禅を「自力」のわざであり、「難行」であると批判したが、悟りに到達する方法として一つを選び、それに打ち込むあり方においては、禅宗もまた鎌倉時代に成立した他の「新仏教」諸派に共通する要素をもっていた。

12世紀からの大転換期にあって、人びとは相次ぐ戦乱と飢饉末法の世の到来を実感し、あたらしい救いを仏教に求めた。こうした要望にこたえたのが、信心や修行のあり方に着目した念仏と題目、および禅の教えであった。これらは、庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方だったのである。そして、民衆の生活に奥深く浸透していった点で、鎌倉仏教(「鎌倉新仏教」)は、大陸から伝わった仏教の「日本化」を示す現象として説明される[4]
浄土系諸宗の開宗
法然と浄土宗詳細は「法然」および「浄土宗」を参照法然(源空)

美作国の豪族の家に生まれた法然(1133年-1212年)は、9歳のとき、同じ荘園に住む武士の夜討ちにあって殺害された父、漆間時国遺言にしたがい、その菩提をとむらうため仏門に入った[5]1147年久安3年)、比叡山延暦寺戒壇天台座主行玄を戒師として授戒を受けた[2]。当初は山門(比叡山)で皇円らのもとで天台宗の教学を学んだが、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、黒谷別所[注釈 1] にうつり浄土教の学僧として知られた叡空に学び、「法然房源空」と号した[5][6][7]


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