鍵谷 康司基本情報
国籍 日本
出身地山口県熊毛郡平生町
生年月日 (1950-07-02) 1950年7月2日(73歳)
身長
体重166 cm
65 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション内野手
プロ入り1975年 ドラフト4位
初出場1976年4月7日
最終出場1982年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
山口県立柳井高等学校
大昭和製紙富士
日本ハムファイターズ (1976 - 1982)
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鍵谷 康司(かぎたに こうじ、1950年7月2日 - )は、山口県熊毛郡平生町[1]出身の元プロ野球選手(内野手)。 柳井高校では、3年次の1968年に春季中国大会へ進むが、1回戦で岡山東商の奥江英幸らに完封を喫する。卒業後は1969年に大昭和製紙へ入社し、都市対抗の常連として活躍。1975年の大会では山根政明[2]・池田信夫の両エースを擁し、2番打者として準々決勝に進出するが電電関東に惜敗[3]。 同年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団[1]。1年目の1976年から二塁手として一軍に定着し、5月には2番打者に抜擢される。同年は26試合に先発出場するが、打撃面で実績を残せず、その後は一時低迷。1979年には復活を果たし、菅野光夫・吉岡悟と二塁手の定位置を争う。その後も内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1981年には巨人との日本シリーズ第3戦で、定岡正二から決勝点となる適時二塁打を放っている。同シリーズでは8打数3安打2打点を記録し、1982年限りで現役を引退[1]。 現在は沼津リトルシニア監督として少年達に指導し、チームを関東大会出場に導き、関東連盟夏季大会において結果を残している。 年
来歴・人物
詳細情報
年度別打撃成績
度球
団試
合打
席打
数得
点安
打二
塁
打三
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗
塁
死犠
打犠
飛四
球敬
遠死
球三
振併
殺
打打
率出
塁
率長
打
率O
P
S
1976日本ハム501231097251002621360800140.229.282.239.521
19775221000000000000010.000.000.000.000
1978214942411100121017000070.262.262.286.548
1979901361121329220351134402000171.259.371.313.684
198067129109102511028811112700150.229.271.257.528
1981691211047274103330280900173.260.319.317.636
1982447259816210204103070381.271.377.339.716
通算:7年346632537501331150154296113925103795.248.315.287.602
背番号
Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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