鍋島直正
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 凡例鍋島 直正

時代江戸時代後期 - 明治時代初期
生誕文化11年12月7日1815年1月16日
死没明治4年1月18日1871年3月8日
改名貞丸→斉正→直正
別名閑叟(号)
戒名綱聖院殿閑叟尭仁大居士
墓所佐賀市大和町の春日山
官位従四位下侍従肥前守議定開拓長官大納言
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶家定家茂
肥前佐賀藩
氏族鍋島氏
父母父:鍋島斉直、母:幸(池田治道娘)
兄弟神代賢在、姉(阿部正寧室のち伊達宗城室)、直孝、姉(鍋島直堯養女)、姉(久世通熙室)、姉(鍋島茂義室)、直永茂真、茂快、妹(鍋島茂勲室)、珍治、妹(松平斉貴室)、茂元、妹(諫早茂喬室)、直賢、文武
妻正室:盛姫(徳川家斉の十八女)
継室:筆姫(徳川斉匡の十九女)
側室:勇、濱、浅岡
子貢(松平直侯正室)、直大、宏子(細川護久正室)、幸子(池田輝知正室)、直虎直柔
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日本政治家鍋島 直正なべしま なおまさ
鍋島直正開拓長官
生年月日1815年1月16日文化11年12月7日
出生地 日本 武蔵国江戸佐賀藩屋敷
没年月日 (1871-03-08) 1871年3月8日(56歳没)
死没地 日本 東京府日比谷佐賀藩屋敷
配偶者盛姫
筆姫
子女松平貢
鍋島直大
細川宏子
池田幸子
鍋島直虎
鍋島直柔
初代 開拓長官
在任期間1869年7月13日 - 1869年8月25日
次官清水谷公考
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鍋島 直正(なべしま なおまさ、文化11年12月7日1815年1月16日〉- 明治4年1月18日1871年3月8日〉)は、江戸時代末期の大名肥前佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前のは斉正(なりまさ)。は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。
経歴

文政10年(1817年)、将軍徳川家斉から松平姓を与えられた[1]天保元年(1830年)、父・鍋島斉直隠居を受け17歳で第10代藩主に襲封。将軍・家斉の偏諱を与えられ斉正と名乗る。当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。斉正自身が江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、斉正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。

斉正は、襲封するとともに藩政改革に乗り出したが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔を窺わねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいであった。しかし天保6年(1835年)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を、斉直の干渉を押し切って実行した。

これを皮切りに、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。

さらに長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置して反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。高島秋帆の西洋砲術に多大な関心を寄せるが、守旧派重臣の反対や幕府に睨まれるといった懸念があったため、義兄で武雄領主の鍋島茂義に先導させてその導入に励んだ。

その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関蒸気船凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄にあたる島津斉彬にも提供されている)[2]

また、当時不治の病であった天然痘を根絶するために、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が藩に痘苗の入手を進言した。藩は長崎出島オランダ商館長牛痘苗の入手を依頼した。出島の医師オットー・ゴットリープ・モーニッケバタヴィアから牛痘苗を入手し、1848年6月に長崎にて種痘が施され、その一部が善感した。

この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播する。長崎の唐通事・頴川四郎八から京都に送られた痘苗によって、同年10月、笠原良策とその師である日野鼎哉が京都に、京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開設した。 一方、佐賀藩では、7月に長崎で佐賀藩医の楢林宗建の息子に接種、善感した。8月には楢林によって佐賀藩領にもたらされ、斉正の長男の淳一郎にも施された。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸に送られた痘苗から、牛痘法は関東以北の各地に広がることになる。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが来航し、江戸幕府老中阿部正弘が各大名に意見を募った時、斉正はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。


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