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ポズナンにある錨

錨(碇、いかり、アンカー、anchor)とは船舶を水上の一定範囲に止めておくために、ロープを付けて海底や湖底、川底へ沈めて使う器具。定置網や建網などの漁具の固定にも用いる[1]

船や航海を連想させるものとして、シンボル的に用いられることも多い。
歴史
西洋の錨

錨の歴史は船の歴史とともにあるとされ、丸木舟が出現した後、より効率よく安全に航海するために組立船が作られるようになり、船が容易に流されないように用いられるようになった石の重りが起源とされている[2]。この石の重りは石碇と呼ばれるもので「碇」の字を当てる[2]

紀元前2000年頃より前には、石に縄を括りつけたものや、紛失を防ぐために石に穴を開けて縄を通したものが用いられた[2]。紀元前2000年以降になると、石碇の底部に穴を開け、その穴に木製の爪を付けたものが用いられるようになり底質を掻く力を利用するようになった[2]

紀元前700年頃には爪状の木材で碇石を挟み込んだ木碇が登場した[2]。さらに紀元前500年頃の古代ローマでは爪先端を青銅のプレートで覆い、安定装置であるストックを金属にした木錨も作られるようになり、安定装置(ストック)と爪(フルーク)からなるストック・アンカーがほぼ完成に至った[2]

1927年イタリアを支配していたベニート・ムッソリーニが国威高揚のために、ローマ第3皇帝カリグラ(在位37-41)が建造したとされる船を見つけるために、ローマ郊外にあるネミ湖から水を全て排出し発掘を行なった。3年後の1930年、巨大船と共に2つの錨が出土し、1つは鉛のストックを持つ木製の碇で、1つは木板で覆われた鉄製の錨であった。これらの船と錨は、出土した地層から紀元1世紀頃のものであることが分かっている。

鉄製錨は300キログラムを超える大きなもので、更にストックが可動式で取り外すことができ、この時代に現在の錨に通じるものが既に確立されていたことがわかる。また、この鉄錨は、現存する最古の鉄製錨としてローマ文明博物館に保管してある。

これらのことから、紀元前2-3世紀には鉄製錨が使われていたであろうことが推測できる[3]

紀元前6世紀頃にはすでにストック・アンカーが使われていたが、18世紀末になると、長く使われていたストック・アンカーに代わり、ストックのないストックレス・アンカーが発明され、現在のアンカーの主流となっている[4]

19世紀には帆船から汽船の時代になり揚投錨の効率化が求められるようになった[2]。しかし、ストック・アンカーは収錨時に船体を傷つけることがあり、大きな空間を必要とするためにストックを畳める構造になっていたが、ストックを展開しなければならず時間がかかる難点があった[2]。ストックレス・アンカーでは揚投錨時に取り扱いやすいようストックを排除し、かわりに錨がどちらに傾いてもフルーク(爪)が海底を掻くようにフルークと一体になったクラウン部を錨鎖とつなぐシャンクの根元がピンにより可動する構造になっている[2]
日本の錨

日本の船の錨(碇)は大まかには、石・木碇・鉄碇の三段階で発達した[1]。なお、明治時代以降「錨」の字が慣用されるようになったが、江戸時代には「碇」の字が慣用されていた(後述)[1]

大阪市森の宮遺跡からは縄文時代後期末から晩期前半のが巻き付いた状態の碇石が発見されており、最大長約42センチメートル、重さ12.5キログラム砂岩製で打ち欠きを施し、をよった縄で縛られ、その重量から舟の碇とされ、この他にも、打ち欠きがなく、重量8キログラムで十文字に蔓で縛られたものも出土している[5]古墳時代の絵画資料としては大阪の高井田山古墳壁画がある[1]

次に、木碇はカギ状の爪をもつタテ割り材で、薄い石材を左右から挟み込んだ形式のものである[1]。木碇の資料として『枕草子』や『松崎天神縁起絵巻』『川口遊廓図屏風』などの資料がある[1]

その後、鉄碇(カナイカリ)が出現し、永享5年(1433年)の『神功皇后縁起絵巻』に四爪鉄碇がみられる[1]。しかし、鉄碇が出現しても木碇はただちには駆逐されず、近世初期になっても木碇が主用され、鉄碇は大名の軍船などに使われる程度であった[1]

明治大正時代には、海軍の近代化を図るために世界各国から艦船を購入しているが、これらの船舶と一緒にマーチンスやトロットマンス等数多くの錨が日本へやってきている。現在使用されているJIS型の元となるホールスも大正末期にはパテントアンカーとして日本へ輸入されていた[6]

1954年に起きた青函連絡船洞爺丸事故により錨の性能への関心が高まり日本独自の錨開発が始まる。

当時日本国有鉄道では国鉄型としてJNR型アンカーを開発し、洞爺丸の後継船をはじめ多くの船舶へ広めようとした。しかし、性能面での問題や青函連絡船の廃止、国鉄の民営化など様々な事情から現在ではほとんど使用されなくなっている。JNR型アンカーの姿は函館市青函連絡船記念館摩周丸や独立行政法人航海訓練所大成丸で見ることができる。

海上自衛隊では創設と共に新型アンカーとして錨の開発に乗り出し、日本独自の錨としてあけぼの (護衛艦・初代)に搭載している。しかし、性能面において世界各国の錨になかなか迫れず、正式な名称も与えられずに、現在では海上自衛隊第1術科学校及び海上自衛隊第2術科学校の中庭や校庭にモニュメントとして飾られるのみとなっている。

日本各所にある商船学校や研究所、錨の製造工場なども錨の開発を行い、神戸大学ではKS-1(現KS-11)アンカーを開発し、練習船深江丸に搭載している。また、尾道錨製造ではONO-45として会社独自の錨を開発したが、尾道錨が廃業したため使われること無く消えた。

その後中村技研工業が第3世代と称してDA-1型アンカーを開発し、フェリー等の一般商船で使われるようになっている[7]
語義
錨と碇

日本語での漢字については「錨」が慣用されるが、明治以降のことであり、江戸時代には「碇」の字を慣用した(そのため「錠」との誤用もみられた)[1]

奈良時代の『万葉集』ではイカリに「重石」「重」「慍」の字を当てている[1]。『播磨国風土記』では「沈石」の字を当てている[1]

なお、同源かは不明であるが、海中にある石のことを「いくり」という[8]10世紀中頃の『和名類聚抄』巻十一における訓読みの表記は、「伊加利」、「海中に石を用いて駐在する」と説明されていることから、漢字では「碇」のほうで表記されている。

平安時代に「碇」の字が定着し、形式の変化には関係なく、江戸時代までは「碇」が慣用されることになった[1]
アンカー

英語での「Anchor」(アンカー)の語源は、「[Ank]」(曲がった)に由来しており、「Ankle」(アンクル、かかと)や「Angle」(アングル、角度)なども同源の単語である。またアラスカ港湾都市であるアンカレッジは、投錨地(anchorage)に由来している。
機能ストックレス・アンカー
1.左:従来型ストックレス・アンカー(無かん錨、Stockless anchor)JIS型 2.右:新型ストックレス・アンカー AC-13型 3.アンカー・リング 4.シャンク(錨柄、Shank) 5.爪(アーム、Arm、錨腕) 6.ヒンジ(Crown pin, Hinge pin) 7.アンカー・ヘッド(錨冠、Anchor head, Crown) 8.耳(Ear、トリッピング・パーム)[9]

錨と錨鎖は海底面等との間で生じる抵抗により船の移動を制止する働きをする。

以下の説明はストックレス・アンカーについて行なう。また、大きな錨は錨鎖によって船と結ばれるが、ヨットボートなど小型船ではロープが使用されており、小型錨の種類は多種に渡る。
各部名称・構造
ストックレス・アンカー
ストックレス・アンカーはその中心に柄の部分にあたる太く丈夫な1本の「シャンク」を持ち、錨鎖と結ばれる。シャンクの先に「爪」と一体になった「アンカーヘッド」が「ピン」によって接続され、アンカーヘッド部分はシャンクから40度前後の角度で正面又は裏面に自由に動くことができる。アンカーヘッド部分の両側にシャンクをはさむように平たい爪が計2本伸び出して、この部分が海底土砂に食い込む。図のようにアンカーヘッドを一周するように平たく張り出した「耳」が海底面を擦ることで爪が下向きに押される錨や、「耳」がなくアンカーヘッド(クラウン)の形状のみで爪が底質へ食い込む仕組みの錨がある。


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