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錦絵新聞(にしきえしんぶん)とは、日本の明治初期の数年間に発行されていた視覚的ニュース・メディア[1]で、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚[2]で絵説きしたもの。グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもある[3]。
錦絵新聞は、浮世絵の特色のうち「報道的な性格」を強く持っていた。ほとんどが明治7年(1874年)から明治14年(1881年)にかけてのごく短期間に発行され、やがて小新聞に押されて姿を消していった。 明治初期に東京で創刊された「新聞」は東京土産になるほど流行したが、知識人層向けで振り仮名や絵もなく、一般大衆には読みにくいものであった。この「新聞」を浮世絵の題材に取り上げて、平仮名しか読めない大衆も絵と平易な詞で理解できるようにしたものが錦絵新聞である。土屋礼子は「非知識人層を読者対象とした小新聞に連なるニュース媒体であった」と位置づける[4]。錦絵新聞は近代ジャーナリズムの勃興期に、新聞というものを一般大衆の身近なものにしたメディアであった。最初の錦絵新聞は、1874年(明治7年)7-8月ごろに発行された[5][6]。東京の版元「具足屋」が東京日日新聞の記事を題材に、落合芳幾[7]の錦絵にふりがなつき解説文を添えて錦絵版の「東京日日新聞」として売り出したものである。錦絵というグラフィックを用いてセンセーショナルな事件を報じるメディアであり、「猟奇的・煽情的な内容」[8]は「現代の写真週刊誌に似た性格のもの」[9]であるとされた。 錦絵版東京日日新聞は、錦絵のわかりやすさと「新聞」の目新しさ、トピックの面白さで大変な人気を得た。これに倣って、郵便報知新聞の記事に月岡芳年の錦絵を添えたもののほか、東京、大阪、京都などの版元から約40種もの錦絵新聞が続々と誕生した。しかし、錦絵新聞同様の平易な文章と内容に、錦絵より作成に時間のかからない単色ずりの挿絵を組み合わせた小新聞(こしんぶん)が発行されるようになると、これに押されて錦絵新聞は誕生から10年もたたないうちにほとんど姿を消した。 錦絵新聞は「発想・スタイルの目新しさとゴシップ主体の性格」[10]が受け、それまで新聞に縁のなかった一般大衆に大人気となった。振り仮名があるニュースの絵説きは漢字をあまり知らない層でも容易に読めたため、「新聞」の面白さを一般大衆に知らしめることとなったのである。視覚的報道メディアとして、またゴシップ・ジャーナリズムの媒体として、のちの写真週刊誌やテレビのワイドショーにも通ずるものがある。「新聞」と同じく、東京土産としても喜ばれた。 しかし、速報性という点では、新聞記事の後追いであり、早くとも数日遅れ、題材によっては何か月も後の発行であった。錦絵新聞の成功を追うように平仮名絵入新聞のような、絵と振り仮名をそなえた小新聞が発行され始めると、それに押されるように錦絵新聞は大衆の視野から消えていった。廃れた理由は、速報性においては新聞に劣ることのほか、「民衆の錦絵離れ」[10]が指摘されている。 錦絵新聞の絵師は小新聞の挿絵画家に、文章筆者は小新聞の記者、寄稿者になったものも少なくない。版元であった絵草子屋の中には、新聞の販売を担当するようになったものもあった[11]。 なお、東京日日新聞や郵便報知新聞の錦絵版のように多数の発行が確認されるもの[12]のほか、本紙の宣伝や付録として、ごく限られた回数のみ発行されたものもある。
歴史と性格
メディアとしての錦絵新聞
浮世絵としての「新聞錦絵」
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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