錦木徹也
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錦木 徹也


基礎情報
四股名熊谷→錦木
本名熊谷 徹也
愛称クマ[1]、岩手のブルドーザー[2]
生年月日 (1990-08-25) 1990年8月25日(33歳)
出身岩手県盛岡市
身長186.0cm
体重183.0kg
BMI52.9
所属部屋伊勢ノ海部屋
得意技押し、左四つ、寄り
成績
現在の番付東前頭7枚目
最高位東小結
生涯戦歴590勝589敗2休(108場所)
幕内戦歴251勝302敗2休(37場所)
優勝十両優勝1回
幕下優勝1回
賞殊勲賞1回
データ
初土俵2006年3月場所
入幕2016年5月場所
趣味ダーツ、野球
備考
金星2個(鶴竜1個、照ノ富士1個)
2024年5月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

錦木 徹也(にしきぎ てつや、1990年8月25日 - )は、岩手県盛岡市出身で、伊勢ノ海部屋所属の現役大相撲力士。本名は熊谷 徹也(くまがい てつや)。身長186.0cm、体重183.0kg、血液型A型。最高位は東小結2023年9月場所)。好きな酒は芋焼酎[3]
来歴

父は国体相撲に3回出場した実績のあるアマチュア相撲選手であった[4]盛岡市立米内中学校[5]時代は卓球部でエースを務めていて、この頃からトレードマークの眼鏡をかけていた[3]。卓球の他に、小学2年生の頃から中学時代まで草野球を行っていた。野球ではポジションはキャッチャーで打順は4番であったといい、本人いわく「肩は良かったんですよ。コントロールは悪かったですけどね(笑)」。小学校時代に野球でチームが菊池雄星と対戦したことがあり、2019年3月場所中の支度部屋で本人は「今は職種が全く違うけど、とにかく頑張ってほしい」とMLBデビューを果たした菊池にエールを贈るコメントをしていた[6]。中学には野球部がなかったため自分が発起人になって創部しようとしたが、サッカー部が強いのでグラウンドが取られてしまって断念した[4]

中学を卒業して伊勢ノ海部屋に入門し、2006年3月場所で初土俵を踏んだ。部屋付きの元大碇の甲川親方が相撲健康体操を教えに岩手県を訪れた際に、会場にいたところを勧誘した縁での入門であった[7]。同期生には栃ノ心松鳳山境澤竜電政風らがいる。前相撲は三番出世。

2008年7月場所で三段目2010年1月場所で幕下と、順調に番付を上げているが、幕下2場所目の同年3月場所は1勝6敗の大敗を喫している。三段目に下がっていた同年7月場所は6番相撲で貴斗志に敗れて6勝1敗となったが、翌9月場所で幕下に復帰すると、以降は幕下に定着。幕下復帰2場所目の同年11月場所は4番相撲で千代の国に敗れたが、6勝1敗の好成績で幕下の優勝決定戦に出場。6人で行われた優勝決定戦では、1回戦で直江に敗れて幕下優勝を逃した。翌2011年1月場所では関取昇進の可能性があるといわれる、幕下15枚目以内の番付に初めて上がることになったが、3勝4敗と負け越した。

2012年7月場所から、それまで本名のままとなっていた四股名を「錦木」と改めた。「錦木」は一見すると普通の苗字のような感じがあるため、彼が本名力士であると誤解する者も多いが、この「錦木」というのは文化年間に伊勢ノ海部屋に所属していた大関力士の名前で、のちの初代二所ノ関となった、錦木塚右エ門(現在の岩手県北上市出身)に肖った由緒ある四股名である[8]。錦木塚右エ門と同じ岩手県出身であった縁からもこの四股名に改名することとなった。先述の2代目塚右エ門を含め錦木を名乗る力士は過去に6人存在するため、彼は「7代目錦木」となる。本人は伝統の四股名を貰ったのでおめおめと盛岡には帰れないと、絶対に関取にならなければいけないと覚悟した。改名した場所で6勝1敗の好成績をあげ、翌場所は1勝6敗となるも、次の11月場所では、土付かずの7連勝とし、幕下優勝を決めた[9]

2014年9月場所は場所前に左足首痛でほとんど稽古ができなかったものの、出足が好調で5勝2敗の勝ち越し[10]。この場所から5勝2敗の成績が続き、2015年3月場所は西幕下2枚目まで番付を上げ、7日目を終えて2敗を喫したが11日目に勝ち越しを決め、14日目は西十両14枚目の希善龍と対戦し、吊り出しで破り(敗れた希善龍は負け越した)5勝目を挙げた。これにより場所後の番付編成会議にて、同年5月場所での十両昇進が決定した[11]

「錦木」の四股名での関取は、1874年3月まで錦木繁之介を名乗った大淀谷五郎以来、141年ぶりのことである[12]。岩手県出身としては四ツ車以来およそ6年ぶり、盛岡市出身としては実に63年ぶりの関取誕生であった[13]

新十両昇進会見では「確定と言われていたけど、本当に上がるか分からなかった。ドキドキしてました。今日、みんなから教えてもらって、やっぱりうれしかった」と笑みをこぼし「実家はあまり被害はなかったんですけど、沿岸部は大変だと思っていたので、被災地復興のためにも元気が出るような相撲を取っていきたい」と東日本大震災の被災者への思いも語った[14]

新十両の場所は西十両13枚目で9勝6敗と勝ち越した。7月場所は5勝10敗と負け越し、9月場所は東十両14枚目まで下がるが、ここから勝ち越しが続き、2016年3月場所は西十両2枚目まで番付を上げた。この場所は10勝5敗の成績で続く5月場所で新入幕となった。新入幕となった7月場所は初日から3連勝したものの星を伸ばせず13日目で負け越しが確定。その後は勝って7勝8敗として十両落ちは免れた。西前頭14枚目に一つ番付を落として臨んだ7月場所は初日から3連敗したもののそこから星を伸ばして最終的に9勝6敗として初の幕内勝ち越しとなった。東前頭9枚目まで自己最高位を更新した9月場所は8勝7敗の勝ち越し。千秋楽に敗れて9勝目を逃したが、本人は「自己最高位で勝ち越せたんで、よくやったと思う」と満足していた様子であった[15]

2016年11月場所は4勝11敗に終わった。2017年1月場所は3日目から4連敗を喫し、9日目からは5連敗。足が止まる場面が多かった。それでも、7日目の魁聖戦のように、巨漢に組み止められても休まずに攻め続けてつかんだ白星もあった。最終的には5勝10敗と2場所連続での2ケタ黒星。続く3月場所に向けては「またやり直し。一つでも二つでも勝てるように頑張りたい」と巻き返しを誓った[16]

2017年春巡業では幕内でただ1人全19ヶ所の場所で土俵に上がるなど稽古熱心さを示した[17]。続く5月場所は、3月場所の負け越しにより十両での相撲となったが、14日目を終えて9勝5敗と優勝争いの先頭に立っており、同じく5敗で並んでいた安美錦と千秋楽に勝てば十両優勝という一番が組まれた。取組の結果、軍配は安美錦へと上がったが物言いがついた結果同体と判断されて取り直しとなり、2回目の取組は完勝で初めての十両優勝を果たした。なお、この千秋楽の白星は、通算300勝という節目の白星でもあった。優勝を受けて「緊張してドキドキした。1場所でも早く幕内に戻りたいと思い、必死に無心で相撲を取っていた。来場所からも勝ち越しを目指し、稽古をするしかない」とコメント[18]

7月場所は再入幕を果たし、7月場所番付発表の際には「実際に上がれるかは発表まで分からなかった。1場所で戻れて良かった」と笑顔を見せた。十両優勝を果たした先場所の千秋楽の熱戦を「だいぶ緊張したが、自信になった」と振り返る。それでも「勝てたのはたまたま。混戦だったので、飛び抜けた力があるわけではない」と浮つくことなく、真価が問われる幕内の戦いに気を引き締めた[19]

7月場所は初日から4連勝と好調の出だしで、中盤に躓いたが千秋楽に勝って5場所ぶりの幕内での勝ち越しを決めた。8月2日の夏巡業富山場所では、この巡業の御当地力士である朝乃山に胸を出してもらった[20]。19日の札幌場所では高安とは初めてとなる三番稽古を行い、計16番取った[21]

9月場所は東の13枚目で迎えたが、序盤から黒星が先行して6勝9敗と負け越し。苦戦を強いられたこの場所は「最初は悪くなかったが、だんだん思った相撲が取れなくなった」と元気がなかった[22]。同年10月5日に行われた秋巡業八千代場所では申し合いを11番行い、4勝7敗であった[23]


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