錦帯橋
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錦帯橋

基本情報
日本
所在地山口県岩国市
交差物件錦川
建設1673年(初代落成。その後、流失や復元工事有り)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度10分03.86秒 東経132度10分41.43秒 / 北緯34.1677389度 東経132.1781750度 / 34.1677389; 132.1781750
構造諸元
形式5径間木造アーチ橋
全長193.3 m
幅5.0 m
地図
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関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市錦川架橋された、5連の木造アーチ橋である[1][2]
概要錦帯橋の全景(2005年5月)

日本三名橋日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政期史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」「五竜橋(ごりゅうばし)」「帯雲橋(たいうんばし)」「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた[3]。「錦帯橋」という美名は、完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル[4]、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、は1本も使わずに造られている[4]。石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる[4]。また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て、1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。現在、そのほとりには、 ⇒錦帯橋友好の石碑が建立されている。

の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。
歴史
創建時葛飾北斎の錦帯橋岩国城と錦帯橋(2009年3月)

錦帯橋は1673年延宝元年)に、岩国藩吉川広嘉によって建造されたものである[4][5]

初代岩国領主吉川広家岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水により流失していた[5]

3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。

広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという[5]。また、の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている[6]。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。

延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた[7]。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという[6]。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた[6]。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した[6]。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。

なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。
近代以降キジア台風で流失した錦帯橋(1950年9月)2001年から行われた架け替え工事の計画表(2001年11月撮影)修理工事中の錦帯橋(2001年11月)修理工事中の錦帯橋(2004年2月)

明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。

1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。

1950年昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、直前までの第二次世界大戦下で橋の補修が疎かになっていたことや、戦時中の燃料不足の中でマツ精油松根油)を採取するためなどで上流域の森林伐採が進み、保水力が落ちていたこと、進駐してきたアメリカ軍が前年に岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどの要因が指摘されてもいる。

1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。コンクリート製での再建案もあったが、市民の求めで木製で再建された[1]

2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。

2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。
特徴
構造錦帯橋の裏側

川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっている。長さはアーチ橋が35.1メートル[4]、桁橋は34.8メートル。

アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配を緩めながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、10番桁鼻間に小棟木を入れる。

こうした構造形式は世界的にも珍しく、ユネスコ世界遺産に登録されている橋梁の中にも、類似の構造をもった木造橋は見られない。

2005年の台風被害の際は、桁橋の橋脚の一部が流失したにもかかわらず橋体には被害がなかった。


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