この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "錦小路頼徳"
凡例錦小路 頼徳
錦小路頼徳(『高名像伝:近世遺勲. 地』)
時代江戸時代後期
生誕天保6年4月24日(1835年5月21日)
死没元治元年4月27日(1864年6月1日)
別名字:一貫、変名:桑原頼太郎
官位従四位上・右馬頭、贈正四位
主君孝明天皇
氏族唐橋家→豊岡家→錦小路家
父母父:唐橋在久、養父:豊岡治資
養父:錦小路頼易
兄弟頼徳、信言
養兄弟:唐橋在光、豊岡随資、町尻量衡
子養子:頼言
テンプレートを表示
錦小路 頼徳(にしきこうじ よりのり)は、江戸時代後期の公家。文章博士・唐橋在久の長男。錦小路頼易の養子。官位は従四位上・右馬頭、贈正四位。字は一貫。 豊岡治資、その後、錦小路頼易の養嗣子となる。嘉永4年(1851年)に叙爵を受け、2年後に大和権介に任じられる。安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊王攘夷派として活躍する。 文久2年(1862年)、従四位上・右馬頭となる。同年、公武合体派の久我建通の弾劾に加担、5月11日国事御用書記に補された。翌文久3年(1863年)2月、壬生基修と共に庶政刷新と攘夷貫徹を求める建言を提出して国事寄人
経歴
後に桑原頼太郎の変名を用いて長州攘夷派と行動を共にするが、赤間関の砲台視察中に病に倒れ、同地で30歳の生涯を閉じた[注釈 1]。没後、王政復古時に官位を復され、明治3年(1870年)に正四位を贈られた。
墓所「錦小路頼徳墓」(山口市赤妻町)は市指定(昭和44年)の史跡[1]。
備考
辞世の歌は「はかなくも 三十年の夢は さめにけり 赤間の関の 夏の夜の雲」。
系譜
父:唐橋在久 - 文章博士
母:不詳
養父:豊岡治資、錦小路頼易
妻:不詳
養子
男子:錦小路頼言 - 小倉輔季(甘露寺国長の子、小倉随季の養子、四位・侍従、左近衛中将)の六男、岩倉使節団の留学生
脚注[脚注の使い方]
注釈^ なお、七卿のうち澤宣嘉は生野の変で決起したものの失敗し、再度長州藩領に戻るが、他の五卿は筑前大宰府の延寿王院に移転した。
出典^ 山口市教育委員会文化財保護課 (2021年7月12日). “錦小路頼徳墓”. 山口市. 2022年8月19日閲覧。