銭湯
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鉄道車両を性能・設備などに応じて分けるための番号の区分については「番台区分」をご覧ください。

江戸東京たてもの園(野外博物館)に移築された子宝湯の入口部分。のれんの一例

銭湯(せんとう)は、日本公衆浴場の一種。風呂屋(ふろや)とも、湯屋(ゆや)とも呼ばれる[1](詳細は後述)。大規模な銭湯ではスーパー銭湯を名乗る場合もある。
概要のれんの例 2

ボイラーで大量の湯を沸かすため、高い排気用の煙突がシンボルの一つとなっている。また、銭湯によっては温泉を利用している場合もある。温泉資源が豊富な北海道帯広市では、市内に10カ所ある銭湯と日帰り入浴施設としても営業しているホテルの大浴場が全て温泉(モール泉)である[2]
定義.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。

日本の法律では公衆浴場について、次の定義がなされている。

公衆浴場法」第1条の規定

この法律で「公衆浴場」とは、温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設をいう。


「公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律」第2条の規定

この法律で「公衆浴場」とは、公衆浴場法(昭和二十三年法律第百三十九号)第一条第一項に規定する公衆浴場であつて、物価統制令昭和二十一年勅令第百十八号)第四条の規定に基づき入浴料金が定められるものをいう。


公衆浴場法の適用を受ける公衆浴場は各都道府県条例で、「普通公衆浴場」と「その他の公衆浴場」に分類される。

「普通公衆浴場」とは、おおよそ「日常生活における保健衛生上必要な入浴のために設けられた公衆浴場」と定義され、一般に、この「普通公衆浴場」を「銭湯」(風呂屋、湯屋)と呼ぶ。各都道府県の条例では、施設の衛生基準や浴槽水の水質基準などが定められている。入浴料金については後述の#料金も参照。

「その他の公衆浴場」とはその営業形態が銭湯とは異なる浴場のこと。また、自治体によっては「特殊公衆浴場」とも呼ぶ。例としてはサウナ風呂健康ランドスーパー銭湯等がある。


分類

元々、江戸時代の公衆浴場には、分類として風呂屋と湯屋があった。水蒸気に満ちた部屋に入って蒸気を浴びて汗を流す、蒸し風呂タイプの入浴法で営業している浴場を風呂屋と呼び、沸かした湯を浴槽に入れ、湯を身体に掛けたり、浸かったりするタイプの入浴法で営業している浴場を湯屋と呼んで区別していた[3]。しかし、江戸時代中頃に入浴法の発達や、兼業して営業する業者が現れるようになった。喜田川守貞が書いた『守貞謾稿』(巻之二十五)の「大坂にては風呂屋と俗に云ひ、江戸では湯屋と云ひ訛る」[4]との記述があるように、地域によって呼び方は異なることはあるが、風呂屋と湯屋は混同されて使用されるようになった[5]
歴史
古代禅林寺にある浴室

日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった。
中世

鎌倉時代になると一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった。これが銭湯の始まりと言われている[6]。『日蓮御書録』によれば、1266年文永3年)、四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」とあることから、詳細は不明ながら、この頃には既に入浴料を支払う形の銭湯が存在したと考えられている[7]。なお、建造物として現存する最古の湯屋は東大寺1239年延応元年)再建、1408年応永15年)に修復されたもので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている[8][9]

室町時代京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。この頃、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった[10]。また、当時の上流階層であった公家武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた[11]。なお、室町時代末期に成立した『洛中洛外図屏風』(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている。
近世『女湯』 大判錦絵2枚続 鳥居清長天明後期 ボストン美術館蔵。銭湯を詳細に描いた浮世絵としては、最も早い時期の作品。画面右、衣服棚がある畳敷のところが脱衣所。画面中央の板敷の間が洗い場、その間に竹を並べて水はけを良くしている。中央上、下半身のみの女性が見えるところが石榴口で、湯が冷めないよう出入口が低くなっていた。左上の小窓から見える男は三助石榴口つき銭湯(鳥居石榴口つき銭湯(破風

江戸における最初の銭湯は、徳川家康江戸城に入って間もない1591年天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が永楽一銭で開業した[12]。当時の銭湯は蒸気浴(蒸し風呂)の形式であった。

江戸ではその後、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した(江戸時代初期)[13]。さらにその後、湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられた風呂が登場した。細工を施した石榴口によって中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、湯の清濁さえ分からないようにして入浴するというものであった。後に、客が一度使った湯を再び浴槽に入れるという構造になり、『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」との記述がある。こうして段々と薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から、次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していった。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。1791年寛政3年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。


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