銭形平次_(大川橋蔵)
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銭形平次
ジャンル
時代劇
原作野村胡堂
(「銭形平次捕物控」より)
企画高橋久仁男、水上輝生、田辺嘉昭、渡部健作、久板順一朗、佐伯明、衣川篤夫
監督長谷川安人鳥居元宏倉田準二荒井岱志斎藤武市黒田義之ほか
監修佐々木康
出演者二代目 大川橋蔵
オープニング舟木一夫「銭形平次」
時代設定江戸時代
製作
プロデューサー笠原武、島村精一、杉本直幸、大崎陽一朗、加藤貢
制作フジテレビジョン東映

放送
音声形式モノラル
放送国・地域 日本
放送期間1966年5月4日 - 1984年4月4日
放送時間水曜日20:00 - 20:54
放送枠フジテレビ水曜夜8時枠時代劇
放送分54分
回数888
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大川橋蔵・主演『銭形平次』(ぜにがたへいじ)は、1966年5月4日から1984年4月4日まで、フジテレビ系列で毎週水曜20時から放映された連続テレビ時代劇。

野村胡堂の小説『銭形平次捕物控』をテレビドラマ化した。
概要

ドラマ史上最長の全888話という金字塔を打ち立て、ギネスブックで世界記録に認定されている[1][2]

スタート当初は白黒作品であったが[2]、2年目からカラー作品が不定期的に製作されるようになり、1969年5月からカラー化[3]。カラー化第一作は視聴率24.7%[3]。第158話以降は正式なカラー放送である。

1967年には、テレビ版と同じスタッフで、映画版も製作されている。

最高視聴率は、1967年9月の35.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)[4]。1975年頃までは常時20%台を保った[4]

2011年4月発売のパチンコ機『CRびっくりぱちんこ銭形平次withチームZ』(京楽産業.)は本作品のタイアップ機で、演出として実写映像が使用されている。
橋蔵平次誕生

本作はフジテレビと東映東映京都テレビ・プロダクション)の共同製作で[5][6][7][8][9][10]、撮影は東映京都撮影所(以下、東映京都)で行われた[6][10][11][12][13]。これは橋蔵が出演オファーを受けたとき、東映との専属契約が切れたままの状態だったが[14]、出演を引き受ける際の条件の一つとして「気心の知れた東映京都の仲間となら」という条件を出したためで[14]、東映京都テレビ・プロがスタッフを引き受ける形で同所で撮影が行われることになった[14]。最初の平次の女房・お静役だった八千草薫は出演契約が1年の予定だったが長く続いたため、2年半経ったとき「東京から週5日も京都に来ていては他の仕事が出来ない」と番組降板を申し入れた[12]

東映は1964年2月に東映京都撮影所所長に復帰した岡田茂が、大川博東映社長から東映京都の合理化と時代劇改革の指揮権移譲を受けて[15][16][17]、東映京都の実権を握っていた[18][19]。一方、橋蔵主演の映画は興行不振が続き[20][21][22][23][24]、1965年以降、映画出演が減らされた[22]。また1965年から1966年3月の結婚に至るまでの女性スキャンダルが週刊誌等に書き立てられ[24][25][26]、人気も落ちており[26][27][28]、岡田はテレビでの橋蔵人気の挽回を狙った[23][27]。岡田は「善良性の時代劇はテレビでやったら受ける、お茶の間で。これから善良性のものはテレビでやるから、全部移すと決めた。橋蔵君はヤクザやったってお客が来るわけない。根っこからの善良性のスターに。だから橋蔵君にテレビに移ってくれと言った。案の定テレビの時代劇は当たりました。『水戸黄門』なんかいまだにやってるでしょ。だからウチが先鞭切ったんだ。やらざるをえなかったからやったんだけど」と2005年のインタビューで[29]、他に「東映京都のテコ入れは『銭形平次』などテレビでどんどん時代劇を作ることだった。映画界はテレビを見下していたが、ウチは同居してしまった。時代劇はもう映画ではダメだった」[17]「私が設立した東映京都テレビ・プロダクションは、映画だけでは飯が食えない時代がやってきたことを意味し、これに大川橋蔵さんが真っ先に賛同して人気テレビ時代劇になる『銭形平次』に出演してくれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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