銭学森
生誕1911年12月11日
清、浙江省 杭州府
死没 (2009-10-31) 2009年10月31日(97歳没)
中華人民共和国、北京市
居住 中華人民共和国
国籍 中華人民共和国
研究分野空気力学, 制御工学
研究機関国防部第五研究院
銭 学森(せん がくしん、?音 Qian Xues?n、ウェード式 Tsien Hsue-shen、1911年12月11日 - 2009年10月31日)は、中華人民共和国の科学・技術者。専門は空気力学、制御工学。
東風弾道ミサイル・長征打上げロケット・海鷹2号巡航ミサイル(シルクワームミサイル)等の開発を指揮。アメリカ合衆国における最初期の弾道ミサイル開発者でジェット推進研究所(JPL)の共同設立者でもあり[1]、第二次世界大戦中はマンハッタン計画に関与してアメリカによる世界初の原子爆弾の開発を支援した[2][3]。米中の交渉で中国に渡り、中国の宇宙開発に貢献して毛沢東の命名で「火箭王」(ロケット王)と呼ばれた[4][5][6]。中国科学院・中国工程院研究員。
略歴
1911年12月11日(清宣統3年10月21日) 浙江省の杭州府に生まれる。
1918年 北京第二実験小学に入学する。
1921年 北京高等師範学院第一附小に転入する。
1923年 北京高等師範学院附属中学に入学する。
1929年 国立交通大学上海本部(現在の上海交通大学の前身)[7]に入学し、鉄道工学を学び[8]、機械工学の学士号を取得した[9]。
1934年10月 清華大学[10]の公費留学生(庚款留学)試験合格者20人の一人に選ばれて清華大学教授の王士倬に師事する[11]。
1935年 渡米してマサチューセッツ工科大学の航空学科に入学した[12]。
1936年 マサチューセッツ工科大学で修士号を取得した[9]。
1939年 カリフォルニア工科大学で博士号取得した[9]。
1942年 マンハッタン計画に参加する[2][3][13]。
1944年 米国国防総省の科学顧問。
1947年 マサチューセッツ工科大教授となる。
1949年 カリフォルニア工科大教授となる。
同年、米国市民権を申請した[9]。
1950年 共産主義者との嫌疑で逮捕、軟禁状態に置かれる。
1955年 アメリカ合衆国大統領のドワイト・アイゼンハワーの許可で朝鮮戦争の米軍捕虜と交換で中国側に引き渡される[14][15]。