銚子漁港
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銚子魚港
Choshi Port
利根川河口右岸の銚子漁港
所在地
日本
所在地千葉県銚子市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度44分16秒 東経140度50分11秒 / 北緯35.73778度 東経140.83639度 / 35.73778; 140.83639座標: 北緯35度44分16秒 東経140度50分11秒 / 北緯35.73778度 東経140.83639度 / 35.73778; 140.83639
詳細
開港1951年7月10日(政令上)
管理者千葉県
種類特定第3種漁港
LOCODEJP_CHO
漁港番号1930010
漁業協同組合銚子市漁業協同組合
統計
統計年度2012年度(参考)
総陸揚量21万3,535トン
陸揚金額243億1400万円
公式サイト ⇒銚子漁港(銚子市公式)
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銚子漁港(ちょうしぎょこう)は、千葉県銚子市太平洋に面する特定第3種漁港

3つの卸売市場を抱える日本屈指の水産物流通拠点であり、年間水揚量では全国第1位[1]水郷筑波国定公園の指定区域内にあり周辺の海岸は砂浜、天然の岩礁と変化に富んだ風光明媚な地形を有している。
概要銚子漁港のシンボル「銚子ポートタワー」

千葉県銚子市銚子半島先端北部、日本三大河川の一つである利根川(一級河川)の河口付近(河口入り口が狭く、中に入るとより広い空間が広がる「銚子口」と呼ばれた地形)に位置し、太平洋に面した漁港。利用範囲が全国的な漁港のうち、水産業の振興のためには特に重要であるとして漁港漁場整備法第5条及び第19条の3に基づき定められた特定第3種漁港であり、海岸法第5条第4項の漁港区域に接する海岸保全区域指定済漁港である[2]

戦後占領期に設定されたマッカーサー・ライン連合国軍最高司令官総司令部の文書SCAPIN第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって決められた日本漁船の活動可能領域)が徐々に拡大されて日本漁船遠洋漁業が可能になり、さらに朝鮮特需が始まると、太平洋日本海東シナ海の各海に面する漁港1港ずつの計3港が特定第3種漁港に指定され、その中でも1951年昭和26年)7月10日[3]と最初に指定された日本の漁港拠点として古くから栄えてきた[4]。近代以降も規模を拡充した結果、2011年(平成23年)に水揚量全国第1位となって以来、その地位を保っている[1]

主に獲れるものとして、春のタイ、夏のイワシ・カツオ、秋のサバ・サンマ、冬のヒラメなどがあり、このため全国から漁船がやってくる「漁業基地」となっている。 近年では銚子ブランド(プライドフィッシュ)として築地市場の目利きも唸る金目鯛と称賛される「銚子つりきんめ(銚金)」が知られるようになった[5]。その他としては「銚子の入梅いわし」などもある[6]

銚子漁港は、良質な漁港環境の条件として以下のような特徴がある[7]

三方を海で囲まれている

親潮寒流)と黒潮暖流)がぶつかる地点である

利根川によって運ばれる有機物を含んだ水により、植物プランクトンが多く発生する

沖合には水深200メートルの大陸棚が拡がっている

漁港付近には加工品製造工場や漁業関連施設、新鮮な魚を使った食堂が並ぶ。1991年平成3年)6月には、海の幸の総合センターとしての複合施設「ウオッセ21」及び銚子漁港のシンボル「銚子ポートタワー」が竣工した。

近年では、漁港漁場整備法第19条及び第19条の3に基づく特定漁港漁場整備事業計画として漁船の大型化や黒生・川口外港の両港口からの出入港を可能とする二港口化に対応するため、大水深岸壁や外郭施設などの整備を行っている[8]。高度衛生管理に対応した荷捌所として第3市場及び大規模製氷場、陸揚岸壁整備を行っており、漁獲物の品質や付加価値の向上と輸出拡大を図る[9]
歴史
古代・中世
漁業の町「飯沼」銚子口と呼ばれた地形
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成した空中写真

平安時代において、房総半島は上総国、下総国、安房国の三国となり、『倭名類聚抄』によると銚子港近辺は「下総国海上郡 三前郷」と記されている[10]。「銚子」という名が使われるようになったのは江戸時代(1700年頃)以降であり、それ以前は、「飯沼」あるいは「三前」と呼ばれていた。また、粟島台遺跡と同様の地域を「下総国海上郡 船木郷」(船木部が置かれ造船用材を扱った地)としている[11]平忠常の子孫である千葉氏の支族である東氏(庶家、千葉六党)及び海上氏(庶家)がこの地を領有するようになり、建久年間(1190年代)千葉常衡が海上与市を名のって船木郷に中島城を築城したといわれている。中島城周辺には、円福寺飯沼観音)及び川口神社があり、円福寺は神亀5年(728年)に漁夫が海中から引き揚げた十一面観音像を安置したのが始まりといわれ、海上氏の帰依も厚く、門前町が形成されたのが、現在の銚子の都市的起源とされている[12]。また、川口神社は寛和2年(986年)の創建と伝えられており、海の守り神として白神明神とも呼ばれ、銚子大漁節では「この浦守る川口の明神御利益あらわせる[13]」と歌われているように、古くから漁師の信仰をあつめていることからも、古くから漁業が盛んな地であった。
近世
利根川東遷と水運の発展下総銚子の濱外浦」歌川広重画『六十余州名所図会』より

銚子河口付近は水深が浅く、潮の流れが急であったため、阿波の鳴門(鳴門海峡)、伊良湖渡合(伊良湖岬)と並ぶ海の三大難所と言われていた[14]。そのため、海難事故が古来より多発している。このため、江戸時代以前は内海で漁獲をすることがほとんどであった。

江戸時代初期に入ると徳川家康江戸入府1590年天正18年)後、徳川氏によって行われた利根川中下流の付け替えにかかわる一連の河川改修として利根川東遷事業が行われた。1621年(元和7年)の新川通開削および赤堀川の開削開始から、1654年承応3年)の赤堀川通水まで工事が行われ、これにより、利根川の水は太平洋への分水嶺を越えて常陸川へ十分な水量が流され、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した江戸の水運が成立し、 銚子河口(常陸川最下流)に位置していた銚子は活気づくことになった。

利根川東遷事業による江戸への水運の確保により、近畿地方(令制国上の畿内、特に紀伊国和泉国摂津国など)から漁民が大量に出漁してきた。以後、鰯漁が大漁であったことから、銚子にも定住する人々が増えるようになる。房総沖(太平洋)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ背後に広大な農地を持つ穀倉地帯である関東平野九十九里平野がひかえ豊富な資金力と必要時のみ動員できる労働力などの社会的条件を求め、紀州などの漁民が旅網や移住などの形で房総半島九十九里浜沿岸に進出してきた。


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