銘仙
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大正時代の銘仙(イギリス英国ナセル・D・ハリリコレクション(英語版)所蔵)20世紀前半の銘仙羽織オランダアムステルダム国立美術館所蔵)

銘仙(めいせん)は、平織した絹織物[1]。鮮やかで大胆な色遣いや柄行きが特徴の、先染め織物である。

本来は、上物の絹織物には不向きな、屑や玉繭(2頭以上のが1つの繭を作ったもの)から引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、ものとしては丈夫で安価でもあった。幕末以降の輸出用生糸増産で大量の規格外繭が生じた関東養蚕・絹織物地帯(後述)で多くつくられ、銘仙の着物大正から昭和初期にかけて大流行した[1]

伊勢崎秩父に始まり、これに、足利八王子桐生を加えた5か所が五大産地とされている[注釈 1]

柄は従来の和風のものにとどまらず、アールデコキュビズムなど西洋芸術の影響を受けたものも多い[1]。銘仙の生産や流通は洋装化により衰退してはいるものの、図柄の文化的・美術的価値は高く評価されており、足利市立美術館イタリアの首都ローマで展示会が開かれたこともある[1]
歴史
発祥

元々は、主に関東や中部地方の養蚕農家が、売り物にはならない手紬糸を使用して自家用に作っていたの一種であった。江戸時代中期頃から存在したが、当時は「太織り(ふとり)[3]」「目千(めせん)[注釈 2]」などと呼ばれ、柄は単純な縞模様がほとんどで、色も地味なものであった。

明治になって身分制度が改まり、一般庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなると、庶民の絹に対する憧れも相まって、日常着においても絹物が主流となった[注釈 3]

また、女性の社会進出が進んだものの、服装においてはまだ和装が圧倒的に主流であり、社会の洋風化に追いついていなかった。このため、女学生職業婦人などの外出着や生活着として、洋服に見劣りしない、洋風感覚を取り入れた着物である銘仙が広く受け入れられることとなった。

当初は平仮名の「めいせん」であったが、1897年、東京三越での販売にあたって「各産地で銘々責任をもって撰定した品」ということで「銘撰」の字を当て、その後、「銘々凡俗を超越したもの」との意味で「仙」の字が当てられて「銘仙」となったという[4]
流行百貨店の秩父銘仙宣伝会(1930年)

1906年華族女学校学習院と併合したのち、1907年に学習院長に就任した乃木希典は、女学生の華美な装いを憂慮して「服装は銘仙以下のもの[注釈 4]」と定めた。これを受け、伊勢崎の呉服商と機屋が共同して、「銘仙には違いないが、それまでの地味なもの[注釈 5]とは違った、色鮮やかで多彩な柄の模様銘仙」を生み出した[5]

これが女学生たちのニーズと合致して大流行となり、幅広い年齢層の女性に広まっていき、「西の御召、東の銘仙」といわれた。

大正末期に行われた街頭風俗調査では、和服で歩いていた女性のうち約半数が銘仙を着ていたとの記録もある[注釈 6]

この新しい銘仙の普及によって、クズ糸ではなく高品質の絹紡糸を使ったものなども登場し、高級品から人絹を使用した安価なものまで、銘仙の中でも品質の幅が生まれていった[2]。また、技法の発展に伴って、「新立(しんだち)」と呼ばれる太縞や、「矢絣」、小ぶりの飛び柄などから、次第に大柄で大胆な柄や複雑な柄のものも作られるようになり、使用される色数も増えていった[6]
戦後

第二次世界大戦後、まだ着物と洋服とが日常着として並立していた時期には、銘仙はさらにモダンなデザインを取り入れ、1950年代には最盛期を迎えた。

その後、ウール着物の登場によって、絣などの日常着物は銘仙からウールに代わり、また、洋装の普及によって和服が特別な機会だけのものとなると、新たに生産される絹物の色柄は銘仙以前の古典的なものに戻っていくこととなる[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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