どら焼き(銅鑼焼き、ドラ焼き、どらやき)は通常、やや膨らんだ円盤状のカステラ風生地2枚に、小豆餡を挟み込んだ膨化食品の和菓子。蜂蜜を入れて焼き上げることでしっとりとしたカステラ生地にしたもの。
蜂蜜やみりん等で保湿や香りづけの工夫をしたものが多いが、他にも醤油、塩、麹、日本酒、抹茶、黒糖など加える配合のバリエーションは広く、現代和菓子の定義的には三同割(さんどうわり)[注釈 1]をどら焼きの基本配合としているのが一般的である。和菓子屋においては、三同割の配合比率を多少の加減調整したり、前述のような独自の工夫を加えた皮生地で差別化を図っている。逆に、三同割に用いられる原料のみにもかかわらず、配合比率を大きく変えた上に特殊技法を用いて独自の特色を出して製造している店舗[1][2]もある。 どら焼きの名は、菓子の形状を打楽器の銅鑼(どら)に見立てたという説が有力である。しかし生地を焼く銅製の鍋が銅鑼に似ていたこと、あるいは実際に銅鑼を流用したことに由来するという異説もある。 武蔵坊弁慶が手傷を負った際にとある民家で治療を受け、そのお礼に小麦粉を水で溶いて薄く伸ばしたものを熱した銅鑼に引き丸く焼いた生地であんこを包んだものを振舞ったことが起源であるという。ただしこの説は鎌倉時代に小豆餡が出来たと言われることから1189年(文治5年)に死んだとされる武蔵坊弁慶との関わりは矛盾する。 この他にも様々な異説俗説があり、どれが正解かは一概に言えない状況にある。ただいずれの説にしても銅鑼に関係している物が多いようである。 日本における粉物料理の元祖は、安土桃山時代の「麩の焼き」であるとされる。麩の焼きとは、巻いた形が巻物経典を彷彿とさせる事から、仏事用の菓子として使われていたもので、茶会の茶菓子として千利休が作らせていたという。麩の焼きが江戸に伝わり、寛永年間には麩の焼きに使われていた味噌に替わり餡を巻く「助惣焼」ができた。助惣焼はあんこ巻きと名を変え、東京都のお好み焼き屋やもんじゃ焼き屋で提供されている。 江戸時代のどら焼きは一枚の皮生地を端の部分から折りたたんでいたため、形は四角く片面の中央はあんこがむき出しであり、現在のきんつばに良く似たものであった。現代における「どら焼き」は東京上野の「うさぎ屋[3]」で販売された編笠焼が始まりとされる[4]。 日本で売られているどら焼きの生地は、欧米から伝わったホットケーキの強い影響を受けており、江戸時代以前のものからはかけ離れている。そのため昭和20年代頃まで現代のどら焼きとホットケーキは混同されがちであった。 近畿方面では、今日どら焼きと呼ばれているものを「三笠」「三笠焼き」「三笠まんじゅう」「三笠山」などと呼ぶことが多い。菓子の外見が奈良県の三笠山に似た形であることに由来する名称で、古くから三笠にちなんだ名称が用いられてきたようである。 ただし、「どら焼き」と「三笠(山)」の違いに関しては地域性は無関係であるとされ[5]、二枚の皮生地の縁を軽くおさえたものが、どら焼きで互いにくっつくようにつくったものが三笠(山)[6]、元々皮生地が片面焼きだったものがどら焼きで両面焼きになったのが三笠(山)[7]、どら焼きよりも皮生地を厚く焼いたのが三笠(山)[8]など、皮生地の形状や製法に違いを求める説が一般的である[9]。また、形状は異なるどら焼きや三笠山は、梅花亭がはじまりとも言われている[9]。 奈良市の近鉄奈良駅近くのひがしむき商店街にある菓子店などでは、通常のサイズのものの他に直径20cm弱の大きな三笠を売っている。市内の老舗和菓子店湖月は、毎年4月19日に林神社で行われる饅頭まつりに、直径が32cmと大きいサイズのさらに2倍、餡が1.9kgも入った巨大な「みかさ」を奉納している。一方で、大阪市など関西でもどら焼きの呼称を使った商品もある[注釈 2]。 老舗カステラ店・文明堂での商品名は「三笠山」。関西方面の三笠の呼び名は、これが起源とも云われている。名古屋市の老舗和菓子屋両口屋是清での商品名は「千なり」。富山県などでは「名月」という[注釈 3]。 一般的には餡を円盤型の生地2枚ではさむ形だが、それとは違う形でどら焼きと称する例もある。
起源・由来
どら焼きの呼称どら焼き屋(豊橋市)どら焼きの実演販売(東京・阿佐谷七夕まつり)
形状・具
形状