銅矛
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銅矛
島根県立古代出雲歴史博物館展示。銅矛の各部名称銅矛の形態変化東京国立博物館展示。(参考)ベルギーで発掘されたソケット式の青銅製斧と槍の頭

銅矛(どうほこ)は青銅製の武器)と矛形青銅器(祭器)の総称である。銅鉾とも書く[注釈 1]。日本列島では、銅剣銅戈とともに武器形青銅器のうちの1種として知られる。
概要

青銅武器類の一種である。刃の下部が袋状になっていて、そこに柄を差し込んで使用することが想定されている。

日本列島には弥生時代に中国大陸の遼寧地域から朝鮮半島を経由して入ったと思われ、やがて列島内部でも生産されるようになった。他の青銅器と同様に、しだいに大型化し祭器化する。

北部九州を中心に分布しているが、対馬・四国にも多く見られる。

以下、日本列島の弥生時代における銅矛を中心に記述していく。
分類
型式分類

近藤喬一[2]、岩永省三 [3]らによって、細形・中細形・中広形・広形の順に変化する編年が構築された。
細形段階

おおむね弥生時代前期末から中期前半に相当する[4]。細形銅矛は墓に副葬されるかたちで確認される[5]。舶載銅矛は福岡平野を主とする北部九州の先進地帯でのみ奉斎を許された特別な祭器であった[6]
中細形段階

おおむね弥生時代中期後半に相当する[7]福岡県立岩遺跡で中細形銅矛が副葬されている[4]。他方、銅矛を埋納する例も中細形段階から見られ始め、この転換は広い範囲で一斉におこなわれた[8]
中広形段階

おおむね弥生時代後期前半に相当する[9]。中広形銅矛が朝鮮半島に輸出されている[10]
広形段階

弥生時代後期後半に相当する[9]。この段階になると四国や熊本県域で見られなくなり、分布圏が縮小している[8]
出土状況による分類

武末純一は銅矛の出土状況によって、墳墓に副葬された副葬銅矛、祭祀に用いられ埋納された埋納銅矛、うち捨てられた廃棄銅矛、そして出土地が明らかでなく神社などに伝世されているものや、出土地は明らかだが遺構が不明なものを伝世銅矛として、4種に分類した[11]
歴史「青銅器時代」も参照

青銅器文化はエジプト、メソポタミアに始まる。銅矛はメソポタミア初期王朝時代に有茎式のものが現れ、エーゲ文明の中期以降に袋穂式が始まり、ヨーロッパでは両者が併存する[12]

日本列島の銅矛は直接的には朝鮮半島から将来される[13]が、その朝鮮半島細形銅剣(朝鮮語版)文化の源流は遼寧青銅器文化の琵琶形青銅武器にたどることができる[14]。朝鮮半島ですでに武器形青銅器は儀器としての性格をもっており、日本列島にもその傾向が引き継がれた[15]
日本列島における銅矛伝来前史「青銅器#日本における青銅器の歴史」も参照

縄文時代後晩期の北海道・東北地方にみられる磨製内反石刀の起源として、中国の青銅刀あるいは青銅刀子[注釈 2]の影響を考える説があるが、他方で在来の縄文文化に起源を求める説もあり確実でない[16]

日本列島への確実な青銅器の流入の初見としては、遼寧式銅剣を加工した福岡県今川遺跡の銅鏃・銅鑿(のみ)があり、これは弥生時代前期前半のものである。ただし遼寧地方の製品と断定できるものではない[17]
副葬される銅矛

弥生時代前期末に北部九州の甕棺副葬品として細形銅矛が登場する[4]。銅矛は日本列島に銅矛が舶載されたころから、武器としての実用性をもつとはいえ実際に武器として使用されたとは限らず、儀器として用いられたと考えられる[18]。これらの銅矛やその他の武器形青銅器は副葬品として有力者の墓に収められた[19]

対馬では中広形・広形段階での副葬が確認されている(長崎県塔の首遺跡など)ものの、九州島で副葬・埋納の例が共存するのは中細形段階までである[20]
大型化・祭器化

弥生時代後期になると、北部九州地域で副葬品としての青銅器が衰退し[21]、すでに中細形段階からみられた埋納品が多くなる。

武器形青銅器の祭器化の原因としては、武器形青銅器が元々持っていた武威的特性に原因があるとする説、鉄製武器が普及したことの影響とする説、武器形木・石製品を用いた祭祀に影響を受けたとする説の三者がある[22]

また大型化の原因としては、祭器として「見る」ためのものになったため大型化したという説、祭器を用いた祭祀の変容に伴って変化したとする説、銅矛と銅鐸が互いの大型化を意識しつつ双方向的に影響し合ったとする説の三説がある[23]

山陰地方瀬戸内地方ではいち早く青銅器祭祀を放棄することが知られており、この現象が大型墳丘墓の出現に関係するとされる[24]
銅矛祭祀の終焉

青銅器を用いた集団祭祀の変質には強化説と形骸化説があるが、その消滅を考慮すると形骸化説が有力と考えられる[25]。形骸化説では、近藤義郎が青銅器の集団祭祀が墳丘墓や古墳でおこなわれる首長霊祭祀へとすり替わっていくとする説を提唱しており[26]、1997年時点では有力とされている[27][注釈 3]

三品彰英は祭祀に用いられる祭具の変化に着目し、地的宗儀である銅鐸・武器形青銅器の祭祀が天的宗儀である銅鏡の祭祀に変化したと考えた[29]

吉田広は、銅矛(武器形青銅器)の金属光沢、銅鐸の鋳造文様を伴う高い造形性という異なる祭器としての性格を、それぞれ鏡面と鏡背に併せ持つことが可能な銅鏡が古墳時代の新たな祭器としての地位を獲得していくと考えた[30]
製作

青銅器生産はさまざまな製作工程を含み、習熟した専門工人[注釈 4]の力を必要とする分野である[32]。日本列島内で青銅器の製作が始まるのは弥生時代中期前半からで、銅矛の分類でいえば細形銅矛の段階からすでに製作が始まっている[33]
原料
詳細は「青銅器#青銅器の産地同定」を参照

銅矛製作に用いられる青銅は、主に銅・スズ・鉛からなる合金である。このうち鉛を利用した、鉛同位体比の研究があり、馬淵久夫らによって進められてきた。
製作地

青銅器の生産遺跡(鋳造工房)を確認するために、鋳型、鞴(フイゴ)の羽口、銅矛鋳型の出土分布は福岡平野とその隣接する地域に集中しており、北部九州の中心地帯広域に分布する銅戈鋳型とは様相を異にする[34]。銅矛は初期には福岡平野で製作され、のちには生産強化のために製作地を広げた[35]
鋳型

銅矛の鋳造は基本的に石製鋳型でおこなわれた[注釈 5]。北部九州地域で鋳型の原料となる 石英長石斑岩は、矢部川流域で採れることが分かっている[37]
分布


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