銀座全線座
Ginza Zensen-za
情報
通称銀座東急
正式名称銀座全線座
完成1938年
開館1938年4月
閉館1978年3月
最終公演『ワン・オン・ワン』
(ラモント・ジョンソン監督)[1]
収容人員357人
用途映画・演劇の興行
運営全線座株式会社
所在地〒104
東京市京橋区銀座8丁目4番地
(現在の東京都中央区銀座8丁目7番13号)
最寄駅新橋駅
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銀座全線座(ぎんざぜんせんざ、1938年4月 開業 - 1978年3月 閉館廃業)は、かつて存在した日本の映画館である[2][3][4]。最終的には銀座東急(ぎんざとうきゅう)と改称した[1][4]。
沿革
1938年4月 - 開館[3]
1978年3月 - 閉館廃業[1]
1979年11月6日 - 同地に銀座国際ホテル
1938年(昭和13年)4月[3][5]、浅草公園六区の帝国館出身の活動弁士・樋口旭浪こと樋口大祐
は、1930年(昭和5年)に早稲田大学近くに早稲田全線座を開業したのにつづいて、東京市京橋区銀座8丁目4番地(現在の東京都中央区銀座8-7-13)に開業した[6]。特徴ある古城風の洋館の建築であった。同月の銀座は映画館の開業ラッシュで、同月内だけで、銀座映画(のちのシネマ銀座、松竹直営)、文化映画劇場(現在のシネスイッチ銀座)、金春ニュース劇場(のちの金春映画劇場)と、同館を含めて4館が開業した[7]。同館では、映画の興行のほか、軽演劇・軽音楽のライヴも行った。1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結し、銀座全線座は焼け残った。戦時中は、東京吉本に貸し出していたが、戦後は一時期東京興行(現在の東京テアトル)が運営を行っていた。1946年(昭和21年)2月1日、セントラル映画社(CMPE, セントラル・モーション・ピクチュア・エキスチェンジとも)が設立され、同社が独占的に配給するアメリカ映画を一番館として封切上映する、アメリカ映画専門館となる[2]。当時の同館の経営は東京興行、支配人は田中良平、観客定員数650名であった[2]。1947年(昭和22年)、藤城清治は東京興行に入社したが、全線座のパンフレット編集も担当していた[8]。セントラル映画社は1951年(昭和26年)12月27日には解体された[9]。翌1952年(昭和27年)4月2日、樋口の個人商店であった全線座が株式会社に改組した[6]。