鉱業
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鉱業(こうぎょう、英語:mining)とは、鉱物などの地下資源(場合によっては地表にあるものを含む)を鉱脈や鉱石から資源として取り出す産業である。卑金属貴金属ウラン石炭オイルシェール岩塩炭酸カリウムなどが採取される。農業で生産できない材料や、研究室工場化学合成で作れない材料を一般に採掘する。広い意味では任意の再生不可能な資源の採取を含み、石油天然ガス、さらには化石水の採掘も含む。チリチュキカマタにある鉱山。露天掘りでは、外周が世界最大で深さが世界2位である。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}

日本は鉱業法では「鉱業」は「鉱物の試掘、採掘及びこれに附属する選鉱、製錬その他の事業」と定義されており(鉱業法4条)、鉱業法の適用鉱物について同法3条で定めている。

音が同じ「工業」などと区別するために「山の鉱業」「金偏の鉱業」などと称することもある。

石や金属の採掘は先史時代から行われていた。現代の鉱業では、鉱体を試掘し、計画中の鉱山の潜在的利益を分析し、必要な素材を抽出し、閉山となった鉱山の土地を最終的に何かに再利用するところまでを含む。鉱山は操業中だけでなく、閉山になってから何年か経っても、周囲の環境の悪影響を及ぼすことがある。このため多くの国々では、鉱山の悪影響を軽減するよう規制を設けている。安全性も重要な課題であり、近年では鉱山における安全は大幅に改善されつつある。
歴史
先史時代イスラエルネゲヴにある金石併用時代の銅山

文明の始まった当初から人々は岩石粘土、後には金属などを地表やごく浅いところから採取して使っていた。それらは道具武器の製造に使われ、例えばフランス北部やイギリス南部で産出する高品質の燧石石器の製作に使われていた[1]。燧石の鉱山はチョークの層の中にあり、地下の鉱脈を追って縦坑や坑道を掘った。特に有名な燧石鉱山跡として Grimes Graves があり、他の燧石鉱山と同様、新石器時代(紀元前4000年から紀元前3000年ごろ)を起源とする。イギリスの湖水地方にあった Langdale axe industry では greenstone と呼ばれる石器に適した岩石を産出した。

既知の最古の鉱山としては、エスワティニの "Lion Cave" がある。放射性炭素年代測定によるとこの鉱山は4万3千年前の旧石器時代のもので、赤鉄鉱を産出し、赤い顔料の原料に使われていた[2]。ほぼ同年代に、ハンガリーネアンデルタール人燧石を採掘し、武器や道具を作っていたと考えられている。
古代エジプト

古代エジプト人はMaadiで孔雀石を採掘していた[3]。当初エジプト人は明緑色の孔雀石を装飾や陶器に使っていた。紀元前2613年から紀元前2494年にかけて、大規模な建築計画のためにエジプト国内では産出しない鉱物や他の資源を確保するために Wadi Maghara への海外遠征を必要とした[4]トルコ石の採掘場跡が Wadi Hammamat、Tura、シナイ半島ヌビア人居住地域[4]ティムナ などで見つかっている。古代エジプトの鉱業は初期の王朝時代に始まり、中でもヌビア金鉱が最も大きく発展した。これについては、シケリアのディオドロスが著作に記している。それによると、金を含む硬い岩を砕く方法として火力採掘(英語版)が行われていたという。
古代ギリシアと古代ローマリオ・ティント鉱山の排水用水車.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "鉱業" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年7月)

ヨーロッパにおける鉱業の歴史は古く、例えば Laurium の銀鉱はギリシアの都市国家アテナイを支えていた。しかし、鉱業を大規模化させたのは古代ローマ人で、特に多数の用水路を採掘現場にひき、大量の水を使えるようにした。水の用途は様々で、採掘現場から土や余分な岩を取り除くのにも使われた。これを水力採掘と呼ぶ。また、採掘した鉱石を洗うのにも使ったし、単純な機械を水力で駆動した。彼らは大規模に水力採掘を行って鉱脈の在り処を探る方式をとっていた。hushingと呼ばれる現在では行われない方法である。そのため、多数の用水路を建設して水を供給し、採掘現場に大きなため池やタンクを作って水を蓄えた。満杯になった水を解放すると、その流れの力で土が洗い流され、金脈を含む岩盤があらわになる。次に、その岩盤を火力採掘法で熱し、再び水流を使って急速に冷却する。このような熱衝撃で岩盤が割れ、さらに水を流すことで岩の破片を岩盤から除去できる。同様の技法はコーンウォール錫石鉱床やペナイン山脈鉱山でも使われた。この技法は紀元25年、スペインラス・メドゥラスにあった沖積層の大きな金鉱床から採掘するために古代ローマ人が開発した。その地では近くの川から7本の長い用水路を建設した。スペインは最重要採掘地域だったが、ローマ帝国全土で試掘が行われている。彼らはリオ・ティントなどの深い鉱山で排水するために逆上射式水車を使った。グレートブリテン島でも原住民が千年に渡って採掘を行っていたが[5]ローマ帝国に征服されると採掘規模が劇的に変化した。グレートブリテン島ではローマ人が必要としていたスズが産出した。ローマの採掘技法は地表に限ったものではなく、露天掘りが適さない場合は、鉱脈を追って地下に掘り進んでいった。Dolaucothiでは、まず露天掘りで鉱脈を明らかにし、次に坑道を掘っていった。坑道の入り口は特に火力採掘法を使うときの排気口としても使われた。同じ鉱山の別の場所では、地下水面にぶつかってしまい、排水のために様々な機械を使った。特に逆上射式水車をよく使った。スペインのリオ・ティント山では、16機の逆上射式水車を2つ1組にして直列に連結し、水を約24mの高さまで汲み上げていた。それらは、坑夫が頂上の羽根板の上に立って、踏車のように動かす。そのような装置は古代ローマの鉱山で多数発見されており、一部は大英博物館やウェールズ国立博物館が所蔵している[6]
中世-近世ヨーロッパ『鉱山書』を書いたゲオルク・アグリコラ

産業としての鉱業は中世に劇的な変貌を遂げた。中世前期の鉱業は、主に銅、青銅、鉄の採掘を行っていた。他にも貴金属を主に装飾と造幣のために採掘していた。もともと金属は露天掘りが中心で、ごく浅いところで採掘し、坑道を地中深く掘るということは少なかった。14世紀ごろ、武器、鎧、あぶみ、蹄鉄などの需要が増え、鉄の需要が増えた。例えば、中世の騎士は重い鎖帷子を身につけ、ランスなどの武器を装備していた[7]。軍事目的での鉄への依存が強まるにつれ、必要に迫られて鉄の増産が進んだ。

新たな鉄の軍事用途が登場したころ、ヨーロッパでは11世紀から14世紀にかけて人口が爆発的に増加し、通貨不足となって貴金属の需要も増えた[8]。1465年、あらゆる銀鉱が既存技術で排水可能な限界の深さに到達し、銀が採掘できないという危機的状況が発生した[9]紙幣の使用が増え、販売信用という仕組みも使われていたが、貴金属の価値と需要は衰えず、硬貨の需要は相変わらず中世の鉱業を推進する力となっていた。水車場という形態での水力利用は幅広く、鉱石を砕いたり、坑道から鉱石を引き上げたり、大きなを動かして坑道を換気したりするのに使われた。1627年、ハンガリー王国のシェルメツバーニャ(現在はスロバキアバンスカー・シュチャヴニツァ)で初めて採掘に黒色火薬を使用した[10]。黒色火薬は岩盤や土を爆破して鉱脈を明らかにすることを可能にし、火力採掘(岩盤を火で熱して水で冷却することで崩す方式)よりもずっと速かった。黒色火薬はそれまで不可能だった場所でも金属や鉱石の採掘を可能にした[11]。1762年、シェルメツバーニャに世界初の鉱業アカデミーが創設された。

農業においてもプラウの鉄の刃のように技術革新が広まり、建築における鉄の利用の増大もこの時代の鉄生産の増大を推し進める要因となった。スペインでは、採掘した鉱石を粉砕するのにひき臼などの発明を使うようになった。この装置は家畜の力を利用し、古代の中東で穀物の脱穀に使っていた技術と同様の原理で動作する[12]

中世の鉱業技法については、Biringuccioの De la pirotechnia や特にゲオルク・アグリコラの『鉱山書』(De re metallica, 1556) に詳しい。これらの本にはドイツやザクセンの鉱山で使っていた各種鉱業技法が詳述されている。アグリコラの著書によれば、中世の鉱山事業者が最も悩まされたのは、坑道の排水問題だったという。坑道を深く掘り進んでいくと、地下水脈にぶつかって坑道が水没する危険性が高まる。そのため様々な機械や家畜を使ってポンプ機構を駆動するようになり、鉱業が劇的に効率化されていった。

近世においても鉱業は、国王など富裕層の私的財産を築く基礎となり続けた。16世紀から18世紀にかけた重商主義時代のドイツでは、財産を形成するために必要な経営学的知識や自然科学的技術を広く包含した官房学が発達。その中でも収入を得るための知識の一つとして鉱業が重視され[13]、鉱山の経営や生産に関するノウハウの蓄積が進んだ。
南北アメリカミシガン州の銅鉱山(1905年)

北アメリカでは、スペリオル湖沿岸に先史時代の山の遺跡がある[14][15]。先住民は少なくとも5千年前に銅の採掘を始め[14]、銅製の器具や鏃や工芸品が見つかっている。さらに、黒曜石燧石や他の鉱石も採掘され、使われていた[15]。初期のフランス人開拓者がその鉱山跡に遭遇したが、輸送手段がないため金属の利用方法がなかった[15]。結局、銅は主要な川を使って大陸中で売買されるようになった。カナダのマニトバ州には、古代の石英鉱山がある[16]

アメリカ大陸の開拓初期には、主に中央アメリカや南アメリカの鉱山で採掘された金や銀がスペインのガレオン船団に収容され、即座にヨーロッパに送られていた[17]。紀元700年ごろにはトルコ石の採掘が行われていた。ニューメキシコ州の Cerillos Mining District では、石器を使って1万5千トンもの石が採掘されたと推定されている[18][19]

19世紀になるとアメリカ合衆国で鉱業が盛んになり、1872年の鉱業法 (General Mining Act of 1872) で連邦所有地での鉱業開発に拍車がかかった[20]。19世紀中ごろのカリフォルニア・ゴールドラッシュに代表されるように、鉱物や貴金属の採掘と牧場の拡大が西部開拓を太平洋岸まで推し進める主な要因となった。鉄道が敷設されると、さらに多くの人々が鉱山の仕事を目当てに西へと移住していった。デンバーサクラメントといった西部の都市は、もともとは鉱山町だった。
日本
古代

九州北部では弥生時代中期後半ごろから青銅器生産が行われており、那珂遺跡群比恵遺跡吉野ヶ里遺跡、乙隈天道町遺跡など多くの遺跡で、石製の青銅器の鋳型が多数発見されている[21]


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