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西洋式の伐採斧薪割り

斧(おの、よき)は、片手、もしくは両手持ちの柄の先に厚くて重い刃を装着した叩き切るための刃物である。
概要現代における、斧の刃の製造

石器時代から世界中に遍在する、歴史のある道具である。→#歴史

斧の基本的な用途は、樹木伐採、また木材の成型、づくり等々である。道具としての斧の一般的な用途は、生きている樹木を伐り倒し丸太を作ったり、を切り払ったり、丸太を割ったり、材木を成形すること、をつくることなどである。例えば山での伐採に用いる斧に切斧(きりよき)がある[1]。また切り出した木材を角材に製材する斧に削斧(はつりよき)がある[1]。斧は武器としても使用されてきた歴史がある。武器として発達した斧は戦斧と呼ばれる。

斧は使用方法ごとに様々なタイプがある。現代の斧は使用目的やサイズ、様式ごとに特化している。

斧は石器時代より、石斧(せきふ)として存在し、樹木をたたき切る道具や武器として用いられた。石斧はその製法により打製石斧と磨製石斧に分けられる。技術の発達に連れ、青銅およびで作られた斧が現われた。

で使うための短い柄を持つ斧はしばしば手斧(ハンドアックス、ハチェット『Hatchet』)と呼ばれる。特に樹木伐採や木材加工用の、片手で使える小型のものをそう呼ぶのである(ただし「手斧」という語は、柄のない斧、を指すためにも用いられているので若干注意が必要である)。ハチェットはしばしば刃の背にハンマーを備えていることが多い。また現代では、柄に収納式のガードが取り付けてあり、刃を保護し安全に持ち歩けるようにしたものもある[2]

中世、近代では通常は木製の柄とそれに直角に固定された金属製の刃からなる。材質に着目すると、西洋の斧は、伝統的には全鋼の刃に、曲線的な木製の柄(典型的な材としてヒッコリー、もしくはホワイト・アッシュアオダモ製のものなど)から構成されている。大抵の斧の刃は刃欠けが起こらないように柔らかめに焼き入れを施してあり、で研ぐことも可能である。柄は近年ではプラスチック製やグラスファイバー製の柄も珍しくない。

日本の斧は、刃が主に全鋼製で両手で扱う薪割り斧と、割込で片手で扱う伐採斧があり、柄はカシ製の直線柄である。日本では、斧頭に柄を固定する場合柄に楔を割りこませるのではなく、櫃と柄の隙間にを打つ固定法が伝統的な固定方法であり、その場合の楔を『柄子』と呼ぶ。柄子を使用した固定方法では、斧頭の衝撃を分散させ、柄の寿命を伸ばすことが可能である。なお日本語では伝統的に、大きい斧や、特に刃渡りの広い斧(丸太の側面を削って角材を作るためのもの)を鉞(まさかり)と呼びわける。和語では薪などを細く割る小型の斧を「マキ割り」「よき」とも呼んだ。
歴史斧と鋸を使っての、巨木の伐採。20世紀初頭、アメリカにて。
石器時代と石斧博物館に展示されている石斧

手斧のような初期の石器は恐らく柄が付いていなかったと思われる。最初の本当の柄付き斧は中石器時代(紀元前6000年頃)に始まることが知られているが、一部の地方では枝角で作られていた斧が新石器時代でも利用され続けた。燧石で作られた切る道具は柄が付けられ「ちょうな」として使われた。磨製石器の石斧は新石器時代以降に現れることが知られている。それらは木を切り倒し加工するために使用された。木製の柄はほとんど見つかっていないが、斧は通常くさびを使って柄に取り付けられたようである。刃を固定するには樺のタールや生が用いられた。新石器時代の後期(ミシェルスベルク文化、Cortaillod文化)では長方形の非常に小さな刃が一般的になった。それらは柄に取り付けられるとき枝角のスリーブが付けられた。これは柄が割れることを防ぎ、同時に石の刃自体への衝撃を和らげた。

新石器時代の初期には打製石器だった斧の刃は、次第に磨製石器になっていった。新石器時代の晩期までには製材(木製の鋸や砂)は一般的になった。これにより、生の素材のより効率的な使用が可能になった。スカンジナビア、北部ドイツ、およびポーランドでは燧石の打製石器、磨製石器の刃を持つ斧が一般的だった。

石の斧は実に効率的な道具である。これを使用すると、直径10センチメートルのトネリコ硬材を切り倒すのに約10分かかる。直径30センチメートルならば1 - 2時間であった(現代の比較:3.5キログラムの競技用伐採斧を用いた場合、25センチメートルのストローブマツ軟材が2分未満)。

新石器時代の晩期以降(Pfyn-Altheim文化)平らな斧があるいはヒ素を混ぜた銅で作られていた。青銅の斧は初期の青銅器時代(A2)以降見つかる。平斧はパルスターブ、フランジ付き斧、さらにその後、翼付き斧、ソケット付き斧へと進化していく。

紀元前3千年紀(?)、ヨーロッパのいわゆる戦斧民族は初期のインド・ヨーロッパ語族、後のケルト人とドイツ人の先祖に当たると考えられている。また、斧は中国の武器類で重要な役割を占めた。

「斧」を意味するプロトインドヨーロッパ語の単語はpelek'u(ギリシア語:pelekus、サンスクリット:parashu)だったと思われる。しかし、この単語は恐らく究極的にはシュメール語balag、アッカド語pilakuと関係する借用語、あるいは新石器時代のwanderwortだったかもしれない(ラブリュス、en:Parashuramaも参照のこと)。

何千もの磨製石斧が粗仕上げされていた新石器時代後期の「斧工場」はイギリス(例えばカンブリアのGreat Langdale)、アイルランド(Lambay島、Porphyry、Rathlin島およびTievebulliagh、porcellanite)、ポーランド(Krzemionki、フリント)、フランス(Plancher-les-Mines、ボージュ山地、pelite、Plussulien、ブリタニー、meta-dolerite)およびイタリア(Val de'Aoste、omphacite)が知られている。石斧の分布は有史以前の貿易を示す重要なサインである。磨製石斧の刃の起源を決定するためにはその薄片を使う。

石斧は今日なおイリアンジャヤ(ニューギニア)の一部で作られ使用されている。ハーゲン山地域は主要な生産の中心地だった。
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この節の加筆が望まれています。 (2015年2月)
古代エジプトの様々なヒエログリフ(基本的には表音文字で一部象形文字)の中には斧の形を用いたものがある。斧をかついでいる人(ローマ時代

古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマなど。

牧野の戦いでは、周の初代王武王が殷の第30代王紂王の首を黄鉞(錆びていない状態の金色の青銅器)で刎ねたとされているように実戦でも使用されていた。



(斧をモチーフにしたヒエログリフ)



(代用文字)
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石器の手で掴む形で使用した石斧

アルカロコリの斧(英語版)

殷代の翡翠製の斧

ドイツ、ブランデンブルク州立考古学博物館収蔵のソケット式の青銅斧

中世

この節の加筆が望まれています。 (2015年2月)
斬首刑用の斧を持った死刑執行人。処刑の台と斧を砧斧(ちんぷ)という[3]
近代、現代アラスカ州ケチカンでの丸太切り競争

開拓時代アメリカ東海岸地域は広大な森林地帯であったため、効率的に開拓するために斧が改良され、元来のヨーロッパ式のものに比べ柄が湾曲し太くなり、刃も強く孤を描くように作られた。それまでのヨーロッパの直線柄で刃の細い斧に比べて1.5倍もの威力と振動吸収性があると言われている。

日本の場合はアメリカやヨーロッパで主に斧の柄に使用されるヒッコリーよりも耐久性に優るカシが斧の柄に用いられるため曲線柄にする必要は無い。
日本日本の伝統的な斧(三木市立金物資料館
旧石器時代、縄文時代、古墳時代など

日本においても旧石器時代より斧は「石斧」として使用されてきた。はじめは石を打ち欠いて整形した「打製石器」だったが、縄文時代に滑らかに研ぎ澄まされた「磨製石斧」へと進歩し、大いに作業性が高まった。大木の根元で火を焚き、石斧で削りとる方式で伐採されたクリの巨木で作られた櫓や「ウッドサークル」を、青森県三内丸山遺跡や北陸のチカモリ遺跡に見ることができる。弥生時代中国大陸朝鮮半島より鉄製の斧が伝来したが、当時は鉄が貴重品だったため、鉄の使用量が少なくて済む、のように木製の刃の先に鉄を被せた形状のものが流通していた。それでも貴重な品で、権力者の石棺に副葬品として納められるほどの重要性を持っていた(なお、戦前まで沖縄で使われていた斧「ウーヌ」は、これとよく似た、木の台に刃を被せた形状である)。やがて鉄器製造技術の向上によって斧は刃の全てを鉄で作られるようになり、古墳時代から飛鳥時代にかけて全国的に広まり、さらに続縄文時代だった北海道にも伝播した。

がほとんど普及していなかった鎌倉時代以前の日本において、斧・ちょうな・鑓鉋は伐採から製材と仕上げをこなす唯一の道具であった。斧で木を伐り倒して断ち切り、楔で引き裂いて角材や板材の大まかな形を取り、ちょうなや鑓鉋で表面を仕上げる。この時代のちょうなは現在と似たようなものから刃幅3センチメートルくらいの片手で扱うものまで多種多様であった。日本ではのように、木目が通っていて引き割りやすい針葉樹が豊富であったため良質な材が枯渇しだす鎌倉時代までは鋸が普及することはなかった。法隆寺などにおいては、柱はもとより戸板や窓の格子に至るまで、樹齢2千年級の檜の巨材を斧で断ち切り、楔で打ち割ることによって素材を得ている。このような状況ゆえに、良材を原料にしなければ作れない大型の板は、大変に高価なものだった。
鎌倉時代と南北朝時代、江戸時代

やがて鎌倉時代に丸太を横に寸断できる横挽き鋸が普及し、さらに室町時代には大陸から大型の縦挽き鋸(大鋸)が伝来した。以降は節の多い材や、ケヤキのような木目の入り組んだ材であっても挽き割って角材や板に加工できるようになり、木材は大いにコストダウンされた。さらにそれまで斧のみが使用されていた伐採作業もノコギリが併用されることとなった。ただし明治時代に入るまでは盗伐防止のために伐採時に音のしないノコギリは禁止され、斧の使用のみが許可されている藩もあった。
明治時代以降

明治時代以降、良質で安価な鉄材が入手できるようになると、鋸が多用される傾向がさらに高まった。第二次世界大戦後には、小型・軽量化が著しく進んだチェーンソーや電動ノコギリなどの進歩により、化石燃料の使用、あるいは「薪割り機」の登場により、斧が使用される場は狭まっている。その一方で、握りやすい曲線的な柄など西洋式斧の利点を取り入れた和式の斧が開発されてもいる。
武器としての使用

斧や鉞は古代より武器としても用いられたが、近接戦の雑武器の一つにすぎず、刀剣や弓矢などのように目立つものではなかったが、源平時代のころから戦場の主な武器の一つとして表舞台に顔出しするようになる。当時は騎馬武者を主力とした戦闘形態で、武者は太刀や弓矢を通さない堅い鎧や兜で武装していた。だが鉞は馬の脚を折り、斬ることで騎馬武者の戦闘力を削ぎ、鎧の上から骨を砕き、深手を負わることが可能だった。そうした威力が評価されて人気の武器となり、剛勇の士の得物となる。その頂点と言えるのが南北朝時代に流行した大鉞である[4]。また、戦闘よりも攻城戦での破砕用に使われたとも言われる[5]。だが、その重量と大きさゆえ、体力と筋力に優れた者にしか扱えない事が欠点だった。

14世紀には鉞は一般的な武器であったが、槍や鉞よりは薙刀の方が一般的であった。また14世紀後半には槍が戦場の武器として威力を発揮し、鉞は廃れていく。槍や大太刀も支持された武器であったが江戸時代の剣術の稽古には使いづらく、流派は多くが廃れてしまった。鉞は独自の流派を生み出すことがなかった[6]
象徴、宗教的儀式

少なくとも新石器時代後期以降には、精巧に作られた戦斧や丁字斧などは宗教的な重要性を持っており、またその所有者の地位の高さを示したと考えられている。ある種の斧は、ほとんど磨耗の跡が無い。新石器時代中期の柄の無い斧の刃だけが蓄えられたもの(イギリスのサマセット・レベルのように)は神への贈り物だったのかもしれない。ミノア文明の金のラブリュス

ミノア文明時代のクレタ島では両刃の斧(ラブリュス、labrys)が特別の意味を持っていた。両刃の斧は新石器時代にまで遡る。1998年には精巧に装飾された柄の完備した両刃斧がスイスのツーク、チャムエスレンで見付かった。柄は長さ120センチメートルで、装飾されたの樹皮で包まれていた。斧の刃は長さ17.4センチメートルで、Gotthard地域で採掘されたアンチゴライトで作られていた。柄は両円錐形の穴を通し、枝角のくさびと樺のタールによって固定されていた。それは初期Cortaillod文明に属する。薔薇戦争テュークスベリーの戦い後の斬首刑(1471年)


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