鉄道模型
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鉄道模型(てつどうもけい)とは、実物の鉄道車両を、一定の比率軌間になるよう縮小した模型
概要軌間16.5 mm (0.65 in)のHOゲージのレイアウトOゲージのジオラマ

一定の縮尺(スケール)や軌間(ゲージ)になるよう実物の鉄道車両を縮小した模型であり、線路や駅舎や鉄道周囲の建物や自然風景なども鉄道模型に含む。鉄道模型の列車は基本的には動力も備え、それ自体で走行するものである。

大きさ(縮小率)としては、指先でつまめるような小さなサイズの物から、実物の数分の一の縮尺で、乗用台車を牽引し人が跨って乗れるほどの大きさのものまである。

なお実物の鉄道と鉄道模型との間には、サイズ以外の差異もある。例えば、実際の鉄道路線との違いとして、鉄道模型の多くの軌道のカーブが単心曲線なのに対して、実際の鉄道路線ではカーブの前後に緩和曲線を挿入してある場合が多い[1]。他にも電車の模型の場合には、給電方法などに違いが見られる。

当初は高価な趣味であった。かつてはブリキ製の玩具との境界はあいまいだったものの、次第に決められた縮尺・軌間によって車両やレイアウトジオラマを製作して、コレクションしたり線路上を走行させて鉄道の情景を楽しむための規格が定められるようになっていった。一般に普及するにつれて庶民の狭小な住宅事情を反映し、小サイズの模型がより普及する傾向にある。

鉄道模型の、他の種類の模型と異なる特徴として、車両と軌間が常に対となっている、ということが挙げられる。鉄道模型は線路上を走行させるものであるためそうなっている。縮尺によってサイズは様々だが、ある程度の数の縮尺に集約されている。これは縮尺に規格を定める事で既製品を利用できるようにするためである。

なお遊戯施設などで実物の鉄道の1/3サイズで製作され、客車の内部に人が乗車できる物(例 - イギリス:ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道、日本:伊豆修善寺虹の郷)や、鉄道車両の実物大試作モックアップなども広い意味での「模型」ではあるが、一般的にはこれらを鉄道模型とは言わない。
歴史ロケット号の模型 (Goethe, verschwunden). Abbi. Archiv d. ProMediaTeam Ltd.
イギリス

イングランドにおいて19世紀初頭から生産されていた。当初それらは、実物の宣伝用として製作されていた。

1862年に、ロンドンのメイヤーズがカタログに蒸気機関車を掲載した。1898年にはバセット・ロークが創業し、ドイツビングなどを下請けにしてスケールモデルを供給し始めた。バセット・ロークは1921年OOゲージを発売した。
ドイツ

1835年に、アドラー号と亜鉛製の人形と客車が販売された。1840年には、最初のドイツ製の板金による鉄道模型の生産の記録が残っている。1886年ビングが最初の製品を発売した。1887年、Schonnerが縮尺約1/22・軌間65 mmと、縮尺約1/12・軌間115 mmの蒸気機関車と客車と線路を発売した。

1891年メルクリンライプツィヒ・メッセに最初の鉄道模型を出品した。メルクリンは最初に0番、1番、2番、3番という名称の鉄道模型を生産した。1901年に雑誌上で初めて鉄道模型の標準化規格化について議論され、1891年のメルクリンの規格を元にすることが決まった。

1922年にビングから0番規格の半分のサイズのOO番(OOゲージ)が発売され、Bing-Tischeisenbahn(ビング卓上鉄道)の名で展開された。当初はぜんまい式だったが、1924年には電気式になった。1935年春にトリックスから、秋にはメルクリンからOOゲージ製品が発売された。
日本日本に伝来した鉄道模型:嘉永年間渡来蒸気車田中久重らが製作した蒸気機関車雛型(嘉永6年(1853年))

幕末に帝政ロシアプチャーチンが来航し、蒸気で走る模型を披露したとの記録がある。また、ペリー黒船浦賀に来航した際に、江戸幕府に蒸気機関車の模型を献上したとされる[2]。嘉永6年(1853年)佐賀藩の精煉方であった田中久重が蒸気車の雛型(模型)を作った。桂小五郎がナポレオン号(山口県立山口博物館蔵)を持ち帰った記録もある。また、加賀大野弁吉が蒸気機関車の模型を作った記録がある。これらの機関車は2003年国立科学博物館で開催された江戸大博覧会で展示された[3]。このように日本では実物よりも先に模型の方が完成した。これにより蒸気機関に関する理解が深まった。その後、鉄道省で教材として作られた。電気を動力とする鉄道模型は1890年の上野で東京電燈スプレーグ式電車が運転された第3回内国勧業博覧会において展示されたと思われる。この模型は円形テーブルの上に敷かれた軌道を手回しのダイナモで走らせる仕様であった。後に、この模型は日本のライブスチームのパイオニアである田口武二郎の父田口卯吉が入手したという[4]。この模型は東京市に寄贈された[5]

明治後半には上野の菊屋や銀座の伊東屋に舶来の模型機関車が並べられるようになり[6]、ドイツやアメリカから2番1番Oゲージ等の鉄道模型が輸入され、愛好者層を中心に徐々に普及した。関東や関西の百貨店は鉄道模型に力を入れるようになり、三越で販売した国産の鉄道模型セットに入っていたトランス(製造関電機製作所)には三越のロゴマークを描いていた[7]。第2次世界大戦前のメーカーとしては朝日屋 (大阪府)関電機製作所西尾音吉模型工場千代田計器工作所など、そして現在も営業しているカワイモデルである。しかし当時の模型はぜいたく品であり、富裕層の子弟の高価な玩具であった[注釈 1][注釈 2]。なお関電機製作所ではアメリカやイギリスに輸出していた[10]

1924年創刊された『子供の科学』に本間清人[注釈 3][注釈 4]が電気機関車の作り方、庭園鉄道のレイアウトなど模型製作記事を連載した。続いて山北藤一郎[12][注釈 5]が電気機関車や電気関係の製作記事を連載した。そして子供の科学代理部(後の科学教材社[13])によりモーター、車輪、レール、トランス等鉄道模型の部品の販売を開始し、さらに子供の科学展覧会を開催して鉄道模型の発展に貢献した[4]。本間清人は『子供の科学』誌で「50mmゲージ」を提唱[注釈 6]、これが日本における鉄道模型の標準軌間のさきがけとなった。この時代の縮尺であるが、発売された製品は足回りやパンタグラフは約1/40、連結器は1/20位で車体は各人の好みで1/21から1/30位と統一されていなかった。『科学画報』で「模範的電気機関車の作り方」を執筆した香西健は1/30・35mmゲージを採用。1927年日本橋三越で開催された子供の科学主催第1回模型の国展覧会でこの規格の電気機関車が最優等賞を獲得し注目を浴び、1929年に創刊された『鉄道 (雑誌)』はこのゲージを推進した[4]。メーカーも追随して製品を発売するようになり[16]、35mmゲージは戦前の日本の鉄道模型模型規格の主流となった。ミトイ会(35をもじった)という模型クラブが創立され、会場を借りてしばしば公開運転を行い、その様子がニュース映画に取り上げられていた[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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