鉄砲伝来(てっぽうでんらい)とは、16世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃(鉄砲、鐵炮)が伝わったこと、狭義には日本の種子島(当時大隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わった。年代については諸説ある。
種子島への伝来種子島時堯の像(西之表市)
『鉄炮記』の内容「鉄炮記」も参照
『鉄炮記』によれば、天文12年(1543年)8月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現・前之浜)に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫
(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を島主・種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。船は8月27日に赤尾木に入港した。時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った[1]。
なお、このころ平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領・王直の号は五峰[2]という。山冠の「峯」は山偏の「峰」の異体字であり(山部)、『鉄炮記』で筆談相手となった明の儒者・「五峯」の名は王直の号と同じである。 一方、アントニオ・ガルヴァオ
外国の記録と年代の整合性
西暦1542年、シャム王国のドドラに停泊していた船の船長・ディエゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し、ジャンク船で中国へと出航した。3人の名はアントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト(ポルトガル語版)とアントニオ・ペショトで、北緯30度あたりにある寧波に進路を取った。しかし、嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ、北緯32度で東に島を見つけた。その名は日本であり、まさに物語で語られる富貴の島ジパング(Sipangu)そのものであるらしく、金銀と豪華なものが溢れていた。 ? Antonio Galvao[3]
このほか、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』にも1542年、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』は1544年の主張があり、伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。
著者国著書言及年発行年
アントニオ・ガルヴァオ(英語版)ポルトガル『新旧世界発見記』1542年1563年
フェルナン・メンデス・ピントポルトガル『東洋遍歴記(ポルトガル語版)』1544年1614年
ジョアン・ロドリゲスポルトガル『日本教会史』1542年1634年
ディオゴ・デ・コートポルトガル『アジア誌』1542年1612年
ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラードスペイン『ビーリャロボス艦隊報告』1542年1548年
南浦文之日本『鉄炮記』1543年9月23日1606年
上記の他にも鄭瞬功が記した『日本一鑑』(1565年)や、ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ(イタリア語版)が記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。
これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、坪井九馬三が著書『鉄砲伝来考』(1892年)で『鉄炮記』の説を採用し、1946年にゲオルグ・シュールハーメルらが『鉄炮記』説を支持したことから今日の1543年に落ち着いた[4][5]。現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない[4]。愛知万博で展示された種子島の火縄銃 ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた[4]。 宋で生まれた火器はトルコ・イラン系の火薬帝国や欧州へと広まり、各地の戦争で大量に使用された。東アジアでは、この火器普及の第一の波の影響で、先進的な火器を持つ大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)が海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)を優越し封じ込めていた。大陸アジアである明が海洋アジアであるベトナムの胡朝を滅亡させた第四次北属期や、東南アジア諸国へと遠征した鄭和の大航海もこの時期であり、いずれも火器が重要な役割を果たした。ところが、大航海時代に入って海域アジアにはヨーロッパ、とりわけポルトガルからより先進的な火器がもたらされ、軍事的な優劣が逆転した。日本への鉄砲伝来は東アジアにおける火器普及の第二の波の時期に相当し、海域アジアでは戦乱が激化する一方で、例えば豊臣秀吉が朝鮮出兵するなど、大陸アジアへの侵攻を可能とするほどの軍事力を持つことになった[6]。 実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。 遅くとも天文18年(1549年)までに、種子島の本源寺 鉄砲伝来はねじの技術も日本にもたらしたとする通説がある[8]。それまで日本ではねじは知られていなかったが、鉄砲の後ろの銃身を塞ぐ部品におねじ(ボルト)とめねじ(ナット)が使われており、八板金兵衛清定がこれを複製したのが日本におけるねじの使用の始まりであるとされる。鉄砲製造とそれに必要なねじの技術を学んだ。ねじは鉄砲の部品以外に日本の工業技術では広まらず、幕末の文明開化でようやく普及した。
ポルトガルから伝来したことの意義
実戦での使用
ねじ
種子島以外に伝来していたとする説
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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