「鉄仮面」のその他の用法については「鉄仮面 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
鉄仮面(てっかめん、仏: le masque de fer、英: the man in the iron mask、17世紀中頃? - 1703年11月19日)または仮面の男(かめんのおとこ)は、フランス王国のバスティーユ牢獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」。その正体については諸説諸々。これをモチーフに作られた伝説や作品も流布した。 1669年、ルイ14世の大臣からピネローロ監獄の監獄長サン・マルスに預けられ、監獄長自ら世話をしたという。以降、サン・マルスの転任と共にその囚人も移送され、サント=マルグリット島を経て、1698年にバスティーユ牢獄に移送された。当時のバスティーユ牢獄の看守は、「その囚人は常にマスクで顔を覆っており、副監獄長直々に丁重な扱いを受けていた。」と記録している。 なお、世間一般では「鉄製の仮面を常に着用している」というイメージが広く定着しているが、実際は布製のマスクだったとされ、それも着用するのは人と会う時だけで、普段はつけていなかった。しかし、もし人前でマスクを取ろうとするか、自分の経歴を語り始めたりすれば、その場で殺害せよとの指示が出されていたので、マルスは装填済みのピストルを携行して鉄仮面と会っていた。そのため、牢獄で世話をしていた者も囚人の素顔を知らなかった。 囚人は1703年11月19日に死亡。「マルショワリー」という偽名で葬られ、彼の所有物などは全て破棄されたという。 当時の噂では、フランス軍元帥、オリバー・クロムウェル、フランソワ・ド・ヴァンドーム(アンリ4世の庶子ヴァンドーム公セザールの子でフロンドの乱の指導者の一人)等が挙げられており、その後も様々な憶測がなされた。主な推測だけでも以下のようなものがある。
概要
正体
ルイ14世の義妹オルレアン公爵夫人エリザベート・シャルロットは、ウィリアム3世暗殺未遂(フェンウィック)事件(1696年)に関わったイギリス貴族(ジャコバイト)だと主張した。
ヴォルテールは、宰相ジュール・マザランとルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュの息子で、ルイ14世の庶兄であるとした[1]。デュマはこの説を双子の兄にして『鉄仮面』を書いた。鉄仮面を扱った映画には、ルイ14世と鉄仮面の男が最終的に入れ替わるものもある。
1801年にナポレオンの支持者に広まった説では、囚人はルイ14世本人で、マザランによって扱いやすい替え玉と取り替えられたという。この話には、囚人が獄中で子供を作り、その子が後にコルシカ島へ行き、ナポレオンの先祖になるという尾ひれも付いている。
アーサー・バーンズ(Arthur Barnes)の『仮面の男』(The Man of the Mask, 1908年)[2]によれば、チャールズ2世の庶子ジェームス・ド・ラ・クローシュ(James de la Cloche)であるという。この人物はフランスとの連絡役を務めていたが、イギリスとの関係の露呈を恐れたルイ14世によって監禁されたという。
マルセル・パニョル(Marcel Pagnol)の『鉄仮面の秘密』[3](Le Secret du masque de fer, 1965年)は、アーサー・バーンズ説とは異なり、実はジェームズ・ド・ラ・クローシュはルイ14世の双子の兄弟で、この男を鉄仮面の正体としている。
ハリー・トンプソン(Harry Thompson(英語版)
同様に、桐生操は著書『皇女アナスタシアは生きていたか』(新人物往来社 1991年4月)において、史料より鉄仮面をリシュリュー枢機卿の私兵団「護衛隊」の隊長であったフランソワ・ドゥ・ドージェ・カヴォワの三男であり、放蕩の限りを尽くした末悪魔崇拝の容疑により逮捕されたユスターシュ・ドージェと断定、さらにピネローロで彼と接触しその素顔を知ったニコラ・フーケへの処置やルイ14世から鉄仮面の正体を聞いた際のルイ15世の言葉から、フランソワ・カヴォワこそがルイ14世の実父であるという結論に達している。
軍歴史学者ルイ・ジェンドロン(Louis Gendron)が、1890年にある暗号化された一連の手紙をフランス軍暗号局のエティエンヌ・バゼリーズに解読させたところ、ルイ14世の暗号係ロシノールにより作成された暗号文であることが判明し、その内の1つには、逮捕されたヴィヴィアン・ド・ビュロンド(Vivien de Bulonde)将軍とその罪に関する事柄が記されていた。それによると、ルイ14世は、オーストリアで軍需物資、傷病兵を置き去りにして退却した罪で将軍をピネローロ要塞に収監することを命令し、彼を「個室に監禁し、昼間は**(暗号未解読部分)の条件のもとで胸壁を歩くことを許す」と指示していた。この「暗号未解読部分」を「仮面」と解釈することで、ビュロンド将軍=鉄仮面説が流布されたが、年代等の矛盾により現在ではほとんど支持されていない。