鈴鹿御前
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歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂

鈴鹿御前(すずかごぜん)は、伊勢国近江国の国境にある鈴鹿山[注 1]に住んでいたという伝承上の女神天女。鈴鹿姫・鈴鹿大明神・鈴鹿権現・鈴鹿神女などとも記されている。後世には鈴鹿山の盗賊立烏帽子(たてえぼし)とも同一視され、女盗賊・・天の魔?(第六天魔王もしくは第四天魔王[注 2]の娘)とも記される。その正体は伝承や文献により様々である。

室町時代以降の伝承はそのほとんどが田村語り並びに坂上田村麻呂伝説と深く関係し、平安時代征夷大将軍としても高名な大納言坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物・坂上田村丸と夫婦となって娘の小りんにも恵まれる。

ここでは「立烏帽子」についても記述する。
歴史
鈴鹿峠の信仰

もとは鈴鹿山の神を鈴鹿姫と称して鈴鹿峠の東西や峠上に祀っていたものと考えられている[1]。鈴鹿の地は斎王の群行が途中に設けた鈴鹿郡頓宮が置かれ[注 3]、豊かな水に恵まれていたことから斎宮を行う鈴鹿禊の聖地であり、のちに巫覡の徒(修験山伏・陰陽師・巫女)が祓えをおこなった神聖な地となった[2]

山田雄司は、のちに斎王群行が鈴鹿峠を越えるようになると伝説的斎王とされた倭姫命を鈴鹿姫とみなして祀るようになっていったものと推測している[1]
鈴鹿山の立烏帽子

三重県亀山市滋賀県甲賀市の境に位置する鈴鹿峠に東海道鈴鹿関が置かれ、東山道不破関北陸道愛発関とともに三関と呼ばれた。鈴鹿峠は畿内と伊勢や東国を結ぶ重要な役割を果たしたことで、往来する旅人や物資を目当てとした盗賊が跳梁跋扈したことが記録や説話に記されている。特に伊勢国は水銀の産地として有名で、『今昔物語集』では水銀商人80余人が盗賊に襲われたが、日頃から恩を施していた蜂が飛んできて盗賊を刺したおかげで難を逃れたなどと記されている[原 1]藤原千方の四鬼の説話なども伝わっているように、鈴鹿山は鬼の棲家として知られていた[2]

鈴鹿山の立烏帽子に関する最古の記録は平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集宝物集』で、「コノ世ニモ ナラサカノカナツフテ、スゝカ山ノ タチエホウシ ナト申物侍ケリ、ヒタカノ禅師海之羊ミナト申ケルヌスヒトヽモ、イツレカツヒニヨクテ侍ル、手キラレクヒキラレ、ヒトヤニヰテカナシキメヲノミコソハミナミル事ニテ侍メレ、」とある。ここでは奈良坂[注 4]かなつぶてと同じく鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑されたことを記している[原 2][3]

この立烏帽子について、鎌倉時代初期の承久の乱1221年)前後に成立したとみられる『保元物語』では、伊賀国住人山田小三郎是行が、祖父・行秀が立烏帽子を捕縛して天皇に献上したと名乗りをあげている[原 3][4][3]

御成敗式目追加法では、延応元年7月26日(ユリウス暦1239年8月26日)付で鈴鹿山と大江山の盗賊について、近辺の地頭が責任者として鎮圧させるよう伝達されている[原 4]

建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には、強盗を捕らえた検非違使別当藤原隆房が27、8歳の見目麗しい女官が強盗の正体であったことに驚き「昔こそ鈴香山の女盗人とて言ひ伝へたるに」と、かつて鈴鹿山にも女盗賊がいたことを回想する記述が見られる[原 5]。隆房が検非違使別当であった時期は1183年から1191年であり、この『古今著聞集』とあまり時期の離れない『宝物集』や『保元物語』の盗賊立烏帽子と『古今著聞集』の鈴鹿山の女盗賊が次第に同一人物とされたことで、女盗賊としての立烏帽子へと繋がっていく。

『弘長元年十二月九日公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口の加治□坂を挙げて「昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注している[5]。ここでは盗賊の名前が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその盗賊が崇敬した社の女神として現れる。同時代に記された『古今著聞集』と違い、『弘長元年公卿勅使記』には立烏帽子を女性とした描写は残っていない[6][7]

延文から応安頃に成立した『異制庭訓往来』では、本朝の強盗の張本として藤原保昌の舎弟である藤原保輔とともに鈴鹿山の立烏帽子が記されている。
坂上田村麻呂との結びつき

南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子として認識されるようになっていく[注 5]。盗賊立烏帽子と女神鈴鹿姫が同一視され、坂上田村麻呂の英雄譚に組み込まれるのは室町時代に入ってからと考えられる[8]

14世紀に成立した『太平記』では、源家相伝の鬼切の剣の由来を語る場面で、田村麻呂が鈴鹿御前と戦ったおりの剣が鬼切であり、やがて田村麻呂は鬼切を伊勢神宮に奉納、その後は源頼光に伝えられたとの一節があり、鬼切の剣を介して田村麻呂から頼光への武器継承の説話が創造された。御伽草子の世界は『太平記』での鬼切の剣の由来を語る場面を元にして、『田村の草子』では鈴鹿御前と田村将軍の剣あわせの場面に受け継がれ、また酒呑童子説話においても血吸の剣の由来として脚色されつつ引用された[原 6][6][9]

応永25年(1418年)の征夷大将軍足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親が著した『耕雲紀行』に、当時の鈴鹿山の様子が記されており、「その昔勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという」と、この頃には鈴鹿御前と坂上田村麻呂伝説が融合していたことがうかがえる[10][注 6][6]
鈴鹿社と田村社東海道名所図会「鈴鹿社」

鈴鹿峠には式内社片山神社(鈴鹿大明神)が、西麓の土山には田村神社が祀られている[11]


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