鈴木邦男
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

鈴木邦夫」、「鈴木邦夫 (実業家)」、「鈴木邦雄」、あるいは「鈴木邦雄 (実業家)」とは別人です。

すずき くにお
鈴木 邦男
生誕 (1943-08-02) 1943年8月2日
日本福島県郡山市
死没 (2023-01-11) 2023年1月11日(79歳没)
日本東京都
出身校早稲田大学大学院政治学専攻修士課程中途退学
職業.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

作家

政治活動家

プロレス評論家

活動期間1963年 - 2023年
団体

一水会

ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク

代表作

「腹腹時計と〈狼〉」

「夕刻のコペルニクス」

「がんばれ!!新左翼」

「言論の覚悟」

「右翼は言論の敵か」

「愛国者の憂鬱」

影響を受けたもの谷口雅春
野村秋介
三島由紀夫
森田必勝
高橋和巳
竹中労
平岡正明
太田竜
末松太平
里見岸雄
白井為雄
中村武彦
北一輝
影響を与えたもの木村三浩
見沢知廉
針谷大輔
雨宮処凛
高木尋士
山口祐二郎
テンプレートを表示

鈴木 邦男(すずき くにお、1943年昭和18年〉8月2日 - 2023年令和5年〉1月11日[1])は、日本政治活動家、「一水会」名誉顧問、思想家文筆家プロレス評論家河合塾講師

ほか、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表。コリア国際学園後援会発起人[2]
来歴
少年時代

1943年福島県郡山市に生まれる。税務署勤務だった父親の都合で、秋田県宮城県と、高校生の頃まで東北地方を転々とする。横手に住んでいたときは、ジャーナリストのむのたけじがよく家に来ていた[3]

生長の家との関わりは、母親が病気になったとき、伊藤邦典(のちに全国学協と楯の会)の父親である生長の家の地方講師の祈祷によって、治癒したことがきっかけで、以降、鈴木家では母親が熱心な信者となった[4]

1960年山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件テレビで目撃し、同じ17歳の少年が社会のことを考え、あまつさえ人の命を奪い、自決もするということに、ただならぬ衝撃を受ける。

1961年春休み浅草大日本愛国党を訪ね、総裁の赤尾敏と対面する[5]

宮城県仙台市の東北学院高等学校榴ケ岡校舎(現:東北学院榴ケ岡高等学校)の卒業間際、聖書の時間に赤尾好夫の英単語帳を隠れて見ていたのを教師に見つかり、英単語帳をストーブで燃やされてしまう。職員室に乗り込んで教師を殴り、その場で退学。姉の懇願により、半年間、教会に通って懺悔の生活を送ることを条件に、卒業が許される[5]

1962年、9月、一人だけ半年遅れで、東北学院高等学校榴ケ岡校舎(現:東北学院榴ケ岡高等学校)を卒業。
学生運動時代

1963年早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。

生長の家学生道場に入る。当時の生長の家は、左翼運動が強い時代において右翼思想・愛国主義を強める活動に熱心であり、鈴木は信仰の日々とともに、生長の家学生会全国総連合(生学連)で書記長を務め、左翼学生との殴り合いを含む学内の闘争に奔走する。

1967年、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学生運動を続けるために早稲田大学大学院に進学。

1969年全国学生自治体連絡協議会(全国学協)が結成。初代委員長に就任する。しかし、全国学協の書記長だった長崎大学の安東巌らと対立し、わずか1ヶ月で退任させられる。このとき鈴木と対立した陣営(安東の他に椛島有三など)が、のちに日本会議を結成している。

この事件により、鈴木は失意の中で、別の大学に入学して学生運動をやり直すことを考えたりと、大きなダメージを受けるが、生長の家の創設者である谷口雅春が右派系の新聞「やまと新聞」に、「鈴木君は将来、国士になるでしょう」と書き、鈴木の将来を鼓舞する[6]

1970年、早稲田大学大学院政治学専攻修士課程を中退。左翼運動の退潮とともに自らの運動も敵を失ったこともあり、仙台の実家に帰った。地元の書店の店員として働く。
1970年代

1970年4月、縁あって、産業経済新聞社に入社し、再上京。アパートを探しに渋谷を歩いていたところ、偶然、阿部勉と出会い、居候することになる。阿部の六畳2間のアパートは、楯の会の会員が集まる場所でもあった。産経新聞では、記者ではなく、販売局や広告局に在籍した[7]

政治活動から離れはしたが、周囲の知性のなさに辟易し、このときから大量の読書を自らに課す。月に30冊は必ず本を読むというノルマは現在に至るまで続いており、月のノルマが達成しないことがあっても年に400冊から500冊以上を読破している。

同年11月25日、三島事件がおこる。三島由紀夫の行動にも衝撃を受けたが、友人だった森田必勝の自決が、鈴木の胸をえぐった。運動をやめて一般の仕事をしていた自分と、三島由紀夫とともに自らの命を投げ出すまでの活動を続けていた森田との対比の中で苦悩し、再び鈴木は政治運動に駆り立てられていく。

1972年、森田必勝と三島由紀夫の意思を受け継ごうと、一水会を設立する。創設メンバーは、自身の他に阿部、犬塚博英四宮正貴といった面々であった。鈴木は阿部を尊敬していたが、年長者のため、鈴木が代表となった。当初はマスコミに就職した会員が多かったため、「マスコミ研究会」という名称もあった。

一水会の主催で、森田必勝の追悼である野分祭を毎年、行う。

1973年、防衛庁(当時は赤坂檜町にあった。市ヶ谷に移転し「防衛省」となった後の跡地は東京ミッドタウン)が催事でストリッパーを呼んだことに怒り、抗議した末に乱入する事件を起こして逮捕される。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:86 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef