鈴木眞年
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鈴木 真年(すずき まとし、鈴木眞年とも。天保2年(1831年)- 明治27年(1894年4月15日)は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省司法省文部省陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。
目次

1 生涯

2 編・著作

3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

生涯

1831年(天保2年)、江戸神田鎌倉河岸[1]に煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。

1847年弘化4年)17歳、病弱の故に紀州熊野本宮に入り静養する。翌年には竹亭と号す。この頃、「古代来朝人考」[2]・「御三卿系譜」の草稿を書き上げる。

1849年嘉永2年)19歳、静養を終えて江戸に戻り旗本家臣の娘と結婚するが旬日[3]で離婚となる。父の許しを受け、家督を次弟の廣吉に譲り上野国奥山[4]にて薙髪し出家する。号・不存。

1858年安政5年)28歳、父甚右衛門死去につき、仏門修行を止めて還俗し源牟知良と改名、新田愛氏と号す[5]。しかしまた御嶽教に入門する。

1860年万延元年)30歳、上総国久留里藩藩医安西一方の娘信子と結婚。この年、御嶽教の権大教正中教教監に任命される。

1861年文久元年)31歳、栗原信充に師事して系譜学を学ぶ。

1865年慶応元年)35歳、紀州和歌山藩に招かれ藩士となり、同藩の系譜編集事業を任される。住居を熊野本宮に定めたために、紀州熊野大社の関係事業にも関与した。これより、明治維新までの4年間に織田家系草稿を初め、諸系譜草稿・諸家譜草稿を相次いで書き上げる。

1869年(明治2年)39歳、この年7月に新政府の弾正台が設置されたため、紀州和歌山藩を辞してこれに奉職(月俸50圓、弾正大疏)。

1871年(明治4年)41歳、11月8日宮内省に異動し内舎人になる。俳号・松柏を称す。以後、1891年(明治24年)61歳で東京帝国大学を退官するまで約20年間を政府官吏を勤務しながら、幾多の諸系譜の編纂事業と東京帝国大学・交詢社等の教鞭を取った。退官後は国学校の設立を計画し、その設立運動を展開した。また、熊野大社の復興にも尽力した。

1894年(明治27年)64歳、4月15日大阪市南区東清水町[6]397番地の住居で胃弱のため死去。東京の雑司ヶ谷墓地に葬られた。法名、松柏院頼譽天鏡眞空居士。
編・著作

記号【傳】を付したものは、後掲の参考文献 『鈴木眞年傳』に収載されているもの。

1871年(明治3年)、「百家系図(64冊)」。

1872年(明治4年)、「諸氏家牒・武家大系図(眞年校)」。

1875年(明治7年)、「諸家系譜(26冊)」。

1877年(明治9年)、「古家系図(眞年校)」。

1878年(明治10年)、「明治新版姓氏録(2冊)」、「苗字盡明解(2冊)」/玉養堂【傳】、「名乗字盡略解」、「諸家系図取調所」。

1879年(明治11年)、「史略名称訓義(版本・2冊)」【傳】。

1880年(明治12年)、「華族諸家傳(3巻)」【傳】。

1881年(明治13年)、「三才雑録」。

1885年(明治17年)、「日本事物原始・第一集」/古香館【傳】、「皇族明鑑(2冊)」/博公書院。

1888年(明治20年)、「古事記正義(1巻)」【傳】。

1889年(明治21年)、「皇族明鑑(版本・2冊)」。

1891年(明治23年)、「新田族譜」【傳】。

1892年(明治24年)、「裾野狩衣」を大阪朝日新聞に連載。

1893年(明治25年)、「裾野狩衣」を大阪積善館から出版。



脚注^ のちの神田鎌倉町・現在の東京都千代田区内神田の鎌倉橋交差点付近一帯の古地名。
^ これは前掲の参考文献 『鈴木眞年傳』に所収である。
^ 元の意味は10日間のことだが、きわめて短い期間のこと。
^ 現在の群馬県甘楽郡下仁田町大字東野付近の山中か。
^ 鈴木眞年の先祖が清和源氏新田氏の末裔という伝承に因む。
^ 現・大阪市中央区東心斎橋付近。

参考文献


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