鈴木朖
[Wikipedia|▼Menu]

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年7月)

鈴木 朖人物情報
生誕 (1764-04-03) 1764年4月3日
日本尾張国春日井郡下小田井村
(現 愛知県清須市西枇杷島町東六軒)
死没 (1837-07-08) 1837年7月8日(73歳没)
日本、尾張国江川端
(現 名古屋市西区城西三丁目21番17号)
学問
学派古文辞学派、鈴屋学派
研究分野儒学国学
主要な作品『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』
影響を
受けた人物本居宣長
影響を
与えた人物本居春庭?、時枝誠記
テンプレートを表示

鈴木 朖(すずき あきら、宝暦14年3月3日(1764年4月3日) ? 天保8年6月6日(1837年7月8日))は、江戸時代後期の儒学者国学者。幼名は恒吉。通称は常介。字は叔清。号は離屋(はなれや)。

「朖」は「朗」の異体字。『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』のいわゆる三部作を著し、国語学に優れた業績を残した。
目次

1 生涯

2 後世

3 藩での経歴

4 主な著作

4.1 国語学

4.2 国文学

4.3 漢文学

4.4 教学

4.5 医学


5 弟子

6 縁戚関係

6.1 家系

6.2 家族


7 脚注

8 参考文献

9 外部リンク

生涯 鈴木朖の墓(平和公園誓願寺墓地)

宝暦14年(1764年)3月3日、尾張国春日井郡下小田井村(旧西春日井郡西枇杷島町東六軒町[1]、現愛知県清須市西枇杷島町東六軒)に医師山田重蔵の三男として生まれた[2]明和8年(1771年)丹羽嘉言に師事し、安永4年(1775年)大内熊耳の高弟市川鶴鳴に入門した[2]。若年より名を広め、安永7年(1778年)、15歳にして『張城人物誌』文苑部に掲載される[2]

天明元年(1781年)4月、父重蔵の実父鈴木右衛門の家督を継いだ[2]

天明3年(1783年)、尾張藩藩校明倫堂開校に伴い、督学細井平洲に入校を勧められたが、断った[2]。この頃『思問録』を著し、新井白石采覧異言』を抄するなど、国学蘭学へも興味を示した[2]。天明5年(1785年)には本居宣長の諸著作や張位『発音録』を書写、言語学にも関心を見せる[2]寛政元年(1789年)江戸に出て、荻生徂徠の儒書や中国の韻書に触れた[2]

寛政4年(1792年)2月、石原正明に次いで本居宣長に入門、以降宣長の名古屋訪問時には講義を受け、寛政6年(1794年)4月下旬には直接松坂に赴いた[2]

寛政7年(1795年)2月17日、山田宇源治跡目として御近習組同心となり、同心長屋(旧名古屋市中区南辰巳町10番)に寓居、以降度々1年間の江戸詰に赴いた[2]文化元年(1804年)藩の記録所に勤務した[2]文化2年(1805年)御台所町の鍼医勝田三雪邸(旧名古屋市西区江川町四丁目[2]、現花の木一丁目7番1号[3])奥の別棟に寓居し、本居宣長の号鈴屋を真似て離屋と号した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef