鈴木早智子
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鈴木 早智子
出生名鈴木 早智子
別名東 智子、Miyoko.A
生誕 (1969-02-22)
1969年2月22日(55歳)
出身地 日本東京都
ジャンルポップスJ-POP
職業歌手タレント女優
担当楽器ボーカル
活動期間1988年 -
レーベルポリスター
1988年 - 1996年頃)
バンダイ・ミュージックエンタテインメント
1998年 - 2000年
What's Up? Group
2003年
事務所アップライトミュージック
1987年-1994年
P-ARTISTS[1][注 2]
1994年[3]-1996年
マンリープロモーション
1996年頃)
尾木エージェンシー
1997年頃)
ネバーランド
1998年頃 - 2002年
オレガ
2002年 - 2008年
エグゼ
2008年 - 2013年
センス・プロダクション
2013年 - 2018年?)
TOffice
2019年? - 2020年?)
縁劇人
2020年? - )
※ 鈴木早智子は、アップライトミュージック、P-ARTISTSおよびマンリープロモーションを、同一事務所が社名変更したものとする。マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランドは、同一性のある事務所。「マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期(1996年 - 2002年)」の小節参照。

鈴木 早智子(すずき さちこ、1969年2月22日[4] - )は、日本歌手タレント女優1988年から1996年まで活動した、相田翔子とのアイドルデュオWinkのメンバー。本名同じ[5][6][7][注 4]。別名、東 智子[注 5]、Miyoko.A[注 6]。愛称、さっちん[注 7]東京都出身[11][注 8]
概要

1987年、雑誌『UP TO BOY』主催のミス・アップ・コンテストで第7代グランプリとなり、1988年、同じくミス・アップ第9代グランプリである相田翔子と、アイドルデュオ・Winkを結成。「愛が止まらない ?Turn it into love?」や「淋しい熱帯魚」などのヒット曲により、1989年にはスターダムに上りつめた。1996年、Winkは活動を停止。その後、Winkとしては、1998年1999年2008年2018年と、デュオ結成から10年ごと(1999年を除く)に活動を一時再開しており、テレビ番組等で歌唱している。

Wink活動停止後は、歌手であることを本懐としつつも、主にタレントや女優として芸能活動を継続。

歌手としては、1998年にシングル「INNOCENT SKY?悲しみも届かないあの空の向こうへ?」を、また、2003年にアルバム『零?re-generation?』を発売している。

2009年に発売したDVD『September Shock』で「AV」出演などと報じられたり、2010年に週刊誌によって舞台俳優と不倫していたとされ、一旦、芸能活動の自粛をしたりするなど、スキャンダラスな動向を示した時期もあった。

2011年から2012年、および、2013年から2015年まで一時休業したが、芸能活動を再開している。
来歴
出生からWink結成直前まで(1969年 - 1988年)

1969年2月22日23時8分[12]、広告関係の仕事をする父[13] と、専業主婦の母[14] のもとに生まれる。出生地を愛知県名古屋市とする文献もあるが[15][注 10]、鈴木の自著では、出生地は東京都目黒区[16]幼稚園の年長組に上がる頃に埼玉県草加市へ転居[17]1989年初頭におけるWinkの「愛が止まらない」のヒット後に、東京で単身生活を始めたとする[18][注 13][注 14]。3兄弟の長女(4歳下に弟、8歳下に妹)[23]。小学2年生の時から歌手に憧れていた[24]

中学生の時にアニメソングオーディションに合格するも辞退[25][注 15]

1984年、東京都内の高校へ進学して間もなく歌手を目指して休学し、同年内に一時的に都内港区青山に所在する芸能事務所[注 16]に所属[27]

1985年頃、高校を退学し、喫茶店[28][注 18]や、建設会社の事務[30][注 19]などのアルバイトの傍ら、都内港区の乃木坂にあった笠井幹男のボーカル・スクールで、レッスンを受けるようになる[32][33][注 20]

1986年7月、草加市の西隣である埼玉県川口市の土手において、数千人[注 21]の聴衆を前にし、アマチュアバンドであるフォーエバー[注 22]のボーカルとして、オリジナル曲「おじちゃんヨイショ」[注 22]を歌唱[10][34]

同年8月17日に新宿アルタ内のスタジオアルタで本選が開催された[35] 第1回「ロッテ CMアイドルはキミだ!」コンテストに、最終ノミネート者20名の1人として出場するも[36][注 23]、グランプリの座を獲たのは橘理佐(のちの立花理佐)であった[37][38][39]

この年の11月2日、成城大学の学園祭において開催された、青年誌『UP TO BOY』(ワニブックス)の「ミス UP FESTIVAL in SEIJO UNIV.」に、東 智子の名を以ってエントリーし、ミス・アップ第7代グランプリを受賞[40][注 24]

1987年1月23日発売の『UP TO BOY』同年3月号のグラビアに、名を本名の鈴木早智子に改めて登場し、3月23日発売の5月号で、表紙と巻頭グラビアを飾る。この年、同誌の鈴木のグラビアを目にしたアップライトミュージック社長・森裕平が、芸能事務所に属していなかった鈴木を、設立したばかりの自社に所属させた[43][44]。しかしながら、同社における鈴木の主な仕事は当初、電話番やスケジュール管理などの雑務であり[45]、翌1988年1月に端役としてテレビドラマに出演するなどした以外、Winkを結成するまで目立った芸能活動は無かった[注 25]
Wink時代(1988年 - 1996年)

1988年、ミス・アップ第9代グランプリである[46] 相田翔子とWinkを結成し、4月27日のシングル「Sugar Baby Love」発売を以って歌手デビュー。Winkは、翌1989年には、年間62.95万枚を売り上げた「愛が止まらない」や、同じく54.873万枚を売り上げた「淋しい熱帯魚」などのヒット曲に恵まれ[47]、この年の12月31日には、『第31回日本レコード大賞』での日本レコード大賞受賞[48] や『第40回NHK紅白歌合戦』への出場[49] を果たすなど、一躍スターダムに上りつめる。

Winkの各アルバムには、『At Heel Diamonds』(1988年12月1日発売)を除き鈴木のソロ曲が1曲または2曲収録されており、クール&ザ・ギャングのカバーや来生たかおの提供曲などを歌っているが[注 26]、その他、鈴木単独としては、以下のような動向が見られた。

1990年12月22日公開の映画『きんぴら』に単独出演するが、この時期にはそれ以外のソロでの活動は行なっていない[注 25]

1991年11月25日発売のアルバム『Sapphire』以降、Winkの活動期間中には、Miyoko.A名義で3曲、鈴木早智子名義で2曲の作詞を手掛けた[注 26][注 29]

1992年3月25日、Wink時代唯一のソロ・アルバム『Mode』を発売[注 30]。この年に特に集中的に、テレビドラマの脇役やバラエティ番組のゲストなどとして、単独でテレビ番組に出演している[注 25]

1993年10月20日より翌年9月7日までの1年間、『志村けんはいかがでしょう』(フジテレビ系)のコントにレギュラー出演[注 31]。テレビドラマ以外ではWink時代唯一のテレビ番組単独レギュラー出演となった[注 32]

1994年11月、単身渡米し、およそ2週間、ニューヨークでダンスのレッスンやボイストレーニングを受ける[51][注 33]

1995年3月18日より26日まで公演された舞台『怪盗チェリーのレストラン』で、主演としてチェリー役を演じ、初めて舞台に出演[52][53][注 34]

この年、日本ボウリング場協会CM「ボウリング マジック!!」に起用され、初のCM単独出演を果たしている[注 35]

1996年2月25日、Wink時代唯一のソロ・シングル「La Gioconda」を発売[注 36]

この年3月5日放送の『江戸の用心棒II』(日本テレビ系)において時代劇に初出演するが[注 37]、2月下旬乃至3月初頭に京都太秦でその撮影を終え、帰京した直後、所属事務所の社長より鈴木一人が社長室へ呼び出され、突如としてWinkの活動停止を宣告された[54]


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