鈴木康博
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この項目では、シンガーソングライターについて記述しています。その他の同名の人物については「鈴木康博 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

鈴木 康博[1]
出生名鈴木 康博
出身地 (1948-02-18) 1948年2月18日(76歳)
日本 静岡県伊豆市
学歴聖光学院中学校・高等学校卒業
東京工業大学工学部制御工学科卒業
ジャンル

J-POP

AOR

フォークソング

職業

シンガーソングライター

音楽プロデューサー

作曲家

担当楽器.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

ボーカル

ギター

活動期間1969年 (1969) ?
レーベル

エキスプレス ? 東芝EMI(1983年 (1983) ? 1993年 (1993))

ZIGZAG ? BMG VICTOR(1995年 (1995) ? 1996年 (1996))

バンダイ・ミュージックエンタテインメント(1998年 (1998))

マーキュリー・ミュージックエンタテインメント(1999年 (1999))

DOUBLE NECK RECORDS(2000年 (2000) ? 2011年 (2011))

FOR LIFE(2011年 (2011) - 2012年 (2012))

BIG PINK RECORDS(2013年 (2013) -)

事務所

鈴木音楽事務所(1982年 (1982) ? 1993年 (1993))

パブリック・イメージ(1994年 (1994) ? 1996年 (1996))

omginc.(1997年 (1997) ? 2010年 (2010))

ユイミュージック(2011年 (2011) ? 2012年 (2012))

BIG PINK(2013年 (2013)-)

共同作業者

オフコース(1969年 (1969) - 1983年 (1983))

月光恵亮(1995年 (1995) - 1996年 (1996))

Song for Memories(山本潤子細坪基佳)(2000年 (2000) ? 2009年 (2009))

BEATLES Generation(タケカワユキヒデ岸田敏志)(2010年 (2010))

公式サイト ⇒suzukiyasuhiro.jp
著名使用楽器


ギブソン ES-355 L-5S 他

アイバニーズ- AR 他

鈴木 康博[1](すずき やすひろ、1948年2月18日 - )は、日本シンガーソングライターオフコースの元オリジナル・メンバー。血液型はB型。身長182.8cm。通称は、ヤス、ヤスさん、yassと英語表記されることもある。
経歴

静岡県田方郡修善寺町(現:伊豆市)に生まれ、横浜市磯子区にて育つ。実父は京浜急行電鉄に勤務し、後に取締役になった。中学生の頃からアメリカンポップスに影響されギターを持つようになった。

横浜市立浜小学校時代に中学受験のために進学塾に通っていた電車(京浜東北線)内で小田和正と出会う。1960年、2人揃って聖光学院に進学した。聖光学院高等部3年時の学園祭では小田、鈴木、地主道夫、須藤尊史(横浜市立大学を経てシェル石油入社。ヨット界で有名)の4人でステージを披露した。これがオフコースの原点となる。

その後、東京工業大学に進学、制御工学(いわゆるロボット工学)を専攻した。小田、地主は東北大学に進学。東京・仙台と離れ離れになったが、頻繁に車(日産・ブルーバード)に楽器(鈴木は当初コントラバスを担当)を積んで行き来して音楽活動を続けていたという。ライブは主に横浜で行っていた。

1969年、小田、地主とともにジ・オフ・コースを結成。ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに東北地区から出場。東北から出場したのは「東京だとレベルが高そう。東北のほうが勝ち抜きやすいのでは」という理由だったが、実際に出てみると東北地区も大変レベルが高く、最後まで勝ち抜けるか不安だったという。しかし東北地区1位となり、全国大会でも2位の好成績を残した(1位は赤い鳥)。大学卒業後、鈴木は内定していた安川電機への就職を断り、プロとして音楽の道に進む決意をする。

オフコースは数度のメンバー変遷を経て1972年より小田、鈴木の2人構成、後に清水仁大間ジロー松尾一彦を加えた5人構成で活動、一時代を築くグループとなった。この間、鈴木は小田とともに活動を支え続けた。オフコース時代の活動の詳細はオフコースの項参照。

1982年のコンサートツアー「over」にて日本史上初の日本武道館10日間公演を成功させ、最終日(1982年6月30日)のステージを題材にしたTV番組『NEXT』を制作後オフコースを離れ、ソロ活動を始める[2]

ソロ活動開始後は積極的に作品を創出し、約25年のソロ活動を通して21枚ものアルバムを残し(2008年現在)、全国的なライブ活動も精力的に行っている。また、TVの音楽番組にも頻繁に出演、ドラマの音楽監督なども務めている。

1983年郷ひろみに提供した「素敵にシンデレラ・コンプレックス」がトヨタ・カローラのコマーシャルソングに採用されヒット。鈴木は今でもこの歌を「僕が作った曲では最大のヒット曲」と言って観客を笑わせる。

1984年コカ・コーラのコマーシャルイメージソングを歌い(ただし自作曲ではない)、フジサンケイグループ広告大賞特別音楽賞を受賞。

1986年キリン「ラガービール」のコマーシャルソング「TOGETHER」(原曲は「Let Us Begin Beguine」)がヒット。

1989年、オフコースの解散を受けてエッセイ『時代を超えて、今』(勁文社ISBN 9784766909289)を発表。オフコース脱退を決意するに至った心境、この当時のオフコースに対する思いを率直に語っている(ただし、その後は「(小田に対する)感情的なわだかまりはもう無い」と語っている)。

2000年より細坪基佳ふきのとう元メンバー)、山本潤子(赤い鳥、ハイ・ファイ・セット元メンバー)とユニットSong for Memoriesを結成。和洋問わず幅広いポップス・ナンバーのカヴァー中心に活動、アルバム5枚をリリースしている。

2003年、自ら音楽を担当した「ブルーもしくはブルー」に俳優として出演した。

2010年、所属事務所であるOMGの社長の逮捕の影響で公式サイトが一時アクセス不可能になった。

2011年、所属事務所をユイミュージック(旧ユイ音楽工房)に移籍。

2013年、ソロ活動30周年記念ライブ「たどりついたぜ!! 30年」を9月21日に大和田さくらホール、12月24日に横浜新都市ホールで開催。

2017年11月23日NHKFM「今日は一日“小田和正”三昧」でメッセージの形ではあるが小田と35年ぶりに共演した[3]

2019年 (2019)、5月29日リリースの松尾一彦デビュー45周年記念ミニ・アルバム『君を待つ渚』収録の、オフコース時代の楽曲「君を待つ渚」のセルフカバーに、鈴木がギターで参加。

2022年1月15日 (2022-01-15)、音楽活動50周年ライヴ『鈴木康博LIVE2022 おかげさまで50年+2』を、東京・かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールにて開催。


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