鈴木尚之
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この項目では、脚本家の鈴木尚之について説明しています。労働運動家の鈴木尚之については「鈴木尚之 (労働運動家)」をご覧ください。

すずき なおゆき
鈴木 尚之
生年月日 (1929-10-05) 1929年10月5日
没年月日 (2005-11-26) 2005年11月26日(76歳没)
出生地 日本岐阜県吉城郡国府町
職業脚本家

 受賞
毎日映画コンクール
脚本賞
1965年飢餓海峡

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鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 2005年11月26日)は、日本脚本家岐阜県高山市(旧・吉城郡国府村大字広瀬)出身[1][2][3]
人物

父親は警察官[1]、岐阜県内で転校を繰り返し[2]、父は退官時は高山警察署署長であった[3]。旧制岐阜二中(現・岐阜県立加納高等学校)の二学年下に篠田正浩がいたが[1][3]、在学中に面識はない[3]。同中学から日本大学藝術学部に進み、大学卒業後、1954年東映に入社[3]。同期に東映京都撮影所に配属された高岩淡[2]東映東京撮影所助監督となるが、同スタジオの埃が原因で[2][3]気管支炎を患い、一番仲良しだった深作欣二は引き留めてくれたが[3]、やむなく1955年、本社企画本部脚本課に転属し脚本家となる[3]。間もなく内田吐夢の担当になり[2][3]、「宮本武蔵シリーズ」5部作(1961年―1965年)を手掛け[3]、1963年、当時東京撮影所所長だった岡田茂から『人生劇場 飛車角』の脚本を書かされ(別人名義)[1][4]、「東映任侠映画」の路線化に貢献[1][5][6][7][8]。作品の大成功により、同年岡田からの指示で岡田のプロデュース作品『人生劇場 続飛車角』(相井抗名義)『武士道残酷物語』『宮本武蔵 二刀流開眼』『五番町夕霧楼』『おかしな奴』と6本の脚本を担当[1][9]。これらのハードな仕事をこなした信頼から、岡田に1965年『飢餓海峡』の脚本に抜擢され代表作とした[1][10]。『人生劇場 続飛車角』では、鶴田浩二が脚本に注文を付け、大ゲンカになったが、役者の意見を聞かない方針の鈴木は一切妥協せず、鶴田の要求を突っぱねた[4]。岡田茂は鈴木を「企画構成者としての才能を持つ数少ないライター。企画から興行成績の見通しまで的確に指摘できるライターは東映では鈴木しかいない」と評価した[4]大川橋蔵の人気挽回を思案した岡田から「橋蔵主演・今井正監督で『源氏物語』を書いてくれ」との発注を断り増々評価を上げた[4]。鈴木はここから巨匠たちから脚本指名を受けるようになり、巨匠キラーと呼ばれるようになった[9][11]。後続の脚本家のため、一作づつギャラを上げ、一本100万円になった1967年、東映を退社しフリーとなる[2]。以降、NHK大河ドラマ三姉妹』、『白い巨塔 (1978年のテレビドラマ)』、『不毛地帯 (1979年のテレビドラマ)』等を執筆した。日本シナリオ作家協会会長を歴任。

作家山崎豊子の信頼が厚く、『白い巨塔』『不毛地帯』の脚本は山崎の指名によるものであった。

佐久間良子ら名のある女優たちからも信頼されており、「鈴木さんの脚本なら出演します」と言わしめた。渥美清の信頼も深かったらしく、野村芳太郎山田洋次系列以外の作家としては唯一、長年にわたってコンビを組んでいる。

脚本の直しをしないライターとして知られ、鈴木「なおさず」と呼ばれていた。

『飢餓海峡』『宮本武蔵』を監督した内田吐夢についての「私説内田吐夢伝」を上梓している。

2005年11月26日午前1時25分、肺癌のため都内の病院で死去。76歳没。
作品

※がある作品は合作
映画

つばくろ道中
(1960年)※

江戸っ子奉行 天下を斬る男 (1961年) ※

宮本武蔵 (1961年の映画)(1961年) ※

ちいさこべ (1962年) ※

宮本武蔵 般若坂の決斗 (1962年) ※

武士道残酷物語 (1963年) ※

人生劇場 続飛車角 (1963年)

宮本武蔵 二刀流開眼 (1963年) ※

おかしな奴 (1963年)

五番町夕霧楼(1963年) ※

宮本武蔵 一乗寺の決斗 (1964年) ※

鮫 (1964年)

飢餓海峡 (1964年)

冷飯とおさんとちゃん (1965年)

宮本武蔵 巌流島の決斗 (1965年) ※

沓掛時次郎 遊侠一匹 (1966年) ※

湖の琴 (1966年)

あかね雲 (1967年)

祇園祭 (1968年) ※

スクラップ集団 (1968年)

婉という女 (1971年)

辻が花 (1972年)

あゝ声なき友 (1972年)

海軍特別年少兵 (1972年)

子育てごっこ (1979年)

子どものころ戦争があった (1981年)

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ (1982年)

テレビドラマ

鶴っ子
(1965年、フジテレビ

城砦 (1966年、フジテレビ)

泣いてたまるか 「ビフテキ子守歌」(1966年 - 1968年、TBS) ※

泣いてたまるか 「吹けよ春風」(1966年 - 1968年、TBS) ※

三姉妹 (1967年、NHK大河ドラマ

並木海岸 (1967年)

ながい坂 (1969年、NET

不貞ということ (1969年、NET)

戦国艶物語 (1969年 - 1970年、ABC

柳橋物語 (1970年、フジテレビ)

遺書配達人 (1970年、NHK

湖笛 (1970年、NET)

しがらき物語 (1970年)

渦中の女 (1972年、CBC

私は忘れたい (1972年 - 1973年、TBS)

むかしも今も (1972年、NET)

加那子という女 (1973年、日本テレビ

北国の女の物語 (1973年、NET)

あにいもうと (1973年、NET)

明治一代女 (1973年、NET)

花はあしたに(1974年、読売テレビ

華麗なる一族 (1974年 - 1975年、NET / 毎日放送

女の勲章 (1976年、フジテレビ)

天の花と実 (1977年、テレビ朝日

白い巨塔 (1978年 - 1979年、フジテレビ)

不毛地帯 (1979年、毎日放送)

紅い花なら (1980年、毎日放送)

女、その愛と別れ・残菊物語より (1981年、日本テレビ)

仇討選手 (1981年、フジテレビ)

死者と栄光への挽歌 (1982年、読売テレビ) ※

文豪シリーズ・殺意の瞬間 (1988年、テレビ東京) ※

受賞

1965年 『
飢餓海峡』 - 毎日映画コンクール脚本賞

著書

『鈴木尚之 人とシナリオ』同出版委員会編、シナリオ作家協会、1998年

『私説
内田吐夢伝』岩波書店、1997年/岩波現代文庫、2000年

脚注^ a b c d e f g 日本シナリオ作家協会鈴木尚之 人とシナリオ出版委員会『鈴木尚之 人とシナリオ』日本シナリオ作家協会、1998年、24-26頁。ISBN 4-915048-08-X。 鈴木尚之『私説内田吐夢伝』岩波書店、320-366頁。ISBN 978-4000001779。 
^ a b c d e f 桂千穂「鈴木尚之」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、840-854頁。ISBN 4-88296-801-0。 
^ a b c d e f g h i j 「追悼鈴木尚之 『シナリオは、いのち。


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