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鈴木 安蔵人物情報
生誕 (1904-03-03) 1904年3月3日
日本福島県相馬郡
死没1983年8月7日(1983-08-07)(79歳)
出身校京都帝国大学経済学部(中退)
学問
研究分野法学
研究機関静岡大学、愛知大学、立正大学
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鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日[1] - 1983年8月7日[1])は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。 1904年、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)生まれ[1]。相馬中学、二高[2]を経て、京都帝国大学哲学科に入学。文学部哲学科に入学したものの、河上肇の影響を受けて経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり、大学を自主退学、豊多摩刑務所で2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。 しかしこの事件をきっかけに、吉野の死後明治文化研究会の会長に就任していた尾佐竹猛の知遇を受け、彼の慫慂により会の事務局格として活躍、1937年にはやはり尾佐竹の推薦で衆議院憲政史編纂委員 長らく在野の身であったが、戦後は1952年に静岡大学教授となり、愛知大学教授を兼任した。1967年に静岡大学を退任後、名誉教授となった。その後は立正大学教授を務めた。教学外では、憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、初代代表委員に就任。護憲運動のリーダーとしても活躍した。青山霊園の無名戦士墓に合葬されている。 戦後の鈴木は、社会統計学者の高野岩三郎(元東大教授、後に初代NHK会長)らと「憲法研究会」を結成することになった。「憲法研究会」は、終戦直後の1945年10月末に高野が鈴木に提起し、同年11月5日、杉森孝次郎(元早大教授)、森戸辰男(元東大助教授で後に片山・芦田内閣の文部大臣)、室伏高信(評論家・元朝日新聞記者)、岩淵辰雄(政治評論家・元読売新聞政治記者)ら当時日本を代表する言論人が参加した、民間の憲法制定研究団体である。 この会で鈴木は憲法草案「第3案」をまとめ、会はこの案をベースに「憲法草案要綱」を作成、1945年12月26日に発表した。鈴木は、発表翌日の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案
経歴
出生から太平洋戦争終結まで
戦後
思想ならびに業績
戦前期は左翼学生運動での検挙、著書の発禁など不遇の時期を過ごしていたが、明治文化研究会に参加し、在野の研究者としてマルクス主義者の立場から大日本帝国憲法をはじめとする憲法史・政治史を研究し、特に大日本帝国憲法の成立過程の実証研究をおこなった。
第二次世界大戦後は憲法研究会の発足に参加し、自らの憲法史研究をベースとして会による憲法私案「憲法草案要綱」をまとめた。
憲法研究会で憲法草案を提案
結果として、「憲法草案要綱」はコートニー・ホイットニー准将らGHQによる憲法案を元に作られた現行日本国憲法と共通する部分を有するものとなっている。 上記のように護憲派の人物として知られた鈴木だが、戦時中は「即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)、「東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)という大東亜共栄圏のイデオローグであった。『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には鈴木について、つぎの副題が付けられている。鈴木安蔵(静岡大学教授)侵略戦争の世界史的意義を説く ? 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年
戦時中の姿勢
門下生
金子勝 (法学者) - 立正大学名誉教授
家族・親族
父・鈴木良雄(1877-1904) ‐ 小高銀行支配人代理。安蔵が生まれる半月前に病死。[3]
母・ルイ(1878-1925) ‐ 夫早世し、雑貨商い。1903年に夫ともに小高教会で受洗し、安蔵も毎週教会に通った。[4]
妻:栗原俊子 ‐ 俊子の父・栗原基は英語学者でキリスト者、兄の栗原佑は安蔵の二高時代の後輩[5]。