鈴木啓示
[Wikipedia|▼Menu]

鈴木 啓示基本情報
国籍
日本
出身地兵庫県西脇市
生年月日 (1947-09-28) 1947年9月28日(76歳)
身長
体重181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1965年 ドラフト2位
初出場1966年5月4日
最終出場1985年7月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


育英高等学校

近鉄バファローズ (1966 - 1985)

監督歴


近鉄バファローズ (1993 - 1995)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2002年
選出方法競技者表彰
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

鈴木 啓示(すずき けいし、1947年9月28日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手投手)・監督

通算被本塁打(560本)と通算無四球試合(78試合)の日本記録保持者。通算317勝は日本プロ野球歴代4位(左投手としては歴代2位)、うち先発勝利数288勝は日本記録。パ・リーグ最多記録となる最多奪三振を8回記録している。

愛称は座右の銘より「草魂」[1]、他に「ミスターバファローズ」。
経歴
プロ入り前

西脇市で酒屋を営む両親の下に生まれる[2][3]

元は右利きだったが、4歳の時に右腕を骨折した際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正された。育英高等学校では1964年、2年の時に夏の甲子園兵庫県予選決勝に進出するが、芝池博明投手を擁する滝川高に0-1で敗退。しかし同年秋季近畿大会では決勝に進出。向陽高野崎恒男と投げ合い、延長17回の熱戦を制しサヨナラ勝ち。翌1965年春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で徳島商の利光高明投手(日本生命)に抑えられ、1-3で敗れる[4]。同年夏の県予選決勝では報徳学園と対決、エース谷村智博と投手戦の末、0-1xでサヨナラ負け、夏の甲子園出場はならなかった。高校同期には捕手の塩谷守也(専大)、三塁手藤村哲也がいる。
現役時代

育英高等学校から1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。契約金800万円[5]。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名せず、石床幹雄を指名した。新人の年にオールスターゲームに出場し、同じ左腕で大先輩の金田正一巨人)にカーブの投げ方を習おうとすると、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われ、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる[6]。金田がロッテの監督だった1973年から1978年までの6シーズンはロッテ戦通算26勝8敗の好成績を残し、ロッテキラーとなった。

入団1年目の1966年は5月から先発の一角として起用され10勝12敗を記録、規定投球回(18位、防御率3.19)にも達した。翌1967年は21勝13敗、同年から5年連続20勝を挙げエースとなった。

1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。

1969年に24勝で最多勝

1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)では2度目のノーヒットノーランを記録した。若い頃は江夏豊とともに「セの江夏、パの鈴木」と並び称された奪三振の多い投手であった。1967年から1972年にかけて6年連続で最多奪三振に輝くが(江夏も全く同じ期間に6年連続最多奪三振を記録)、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下し始めた。鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った[7]

1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発し、1974年のオフに主砲の土井正博がトレードされた際には、「次は自分の番」と考えて、阪神監督の吉田義男にトレードを志願する電話をかけたこともあった[8]

1975年3月の阪神とのオープン戦では4回4失点でKOされると西本から「少しは向こうのピッチャー(山本和行 - 4年目)を見習え!」とベンチで言われるなど叱責が続いたが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった[8]。また、投手コーチの杉浦忠からは、「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」とリリース時以外は力を抜く投球術を指導された[9]。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26(村田兆治に次ぐリーグ2位)の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。この頃から有田修三とバッテリーを組むようになる。

1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。

1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。同年の鈴木を最後に、日本プロ野球で年間25勝以上を挙げた投手は現れていない[注 1]。この年は「勝てば後期優勝」のかかった9月23日の阪急との最終戦(「藤井寺決戦」とも呼ばれる)で、山田久志との投げ合いに敗れ、その後阪急が逆転優勝を遂げて3年ぶりの半期優勝を逃した。試合後、辞意を仄めかした西本監督に対して「監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい」と鈴木は絶叫。他の選手もそれに賛同したことで西本は留任し、翌年悲願の初優勝を達成、翌々年も優勝を果たした[10][11]

上記の他、日本一がかかった1980年の日本シリーズ第7戦でも近鉄リードの場面から救援登板して敗戦投手になり[11]、「残り4試合中2勝で優勝」だった1969年終盤の対阪急4連戦の初戦では先制を許して5回でマウンドを下りている(近鉄は敗れたが鈴木に敗戦は付かず)[注 2]。1980年の日本シリーズ第7戦は試合前に監督の西本から「おいスズ、このシリーズはおまえ中心。シーズン中にしたことないと思うけど、リリーフでいくで。頼むで」と言われていたといい、「私は持ち上げられた時は結果が悪い」と2023年の取材に対して語っている[12]。一方、1975年の後期優勝がかかった阪急戦では3点リードの8回から救援登板して胴上げ投手になり、「引き分けでも相手が優勝」だった1980年後期の対日本ハム最終戦(大阪近鉄バファローズ#10.7決戦も参照)では、打たれながらも味方打線が木田勇を打ち崩して勝ち星を挙げ、後期優勝を導いている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:148 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef