鈴木啓太
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その他の同名の人物については「鈴木啓太 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

鈴木圭太」とは別人です。

鈴木 啓太

名前
愛称ケイタ
カタカナスズキ ケイタ
ラテン文字SUZUKI Keita
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1981-07-08) 1981年7月8日(42歳)
出身地静岡県清水市(現:静岡市清水区
身長177cm[1]
体重72kg[1]
選手情報
ポジションMF
利き足右足

クラブ1
年クラブ出場(得点)
2000-2015浦和レッズ 379 (10)
代表歴2
2002-2004 日本 U-23
2006-2008 日本28 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2015年12月9日現在。
2. 2008年5月27日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

鈴木 啓太(すずき けいた、1981年7月8日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手実業家。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表

妻は女優ファッションモデル畑野ひろ子。サッカー選手の水野和樹および水野晃樹は従兄弟。日本プロサッカー選手会元副会長。マネジメントでは株式会社ラボーナ所属。かつてセント・フォースのアスリート部門「ゾーン」に所属していた。

2000年の入団以来、浦和レッズ一筋でプレーしたバンディエラ。2015年10月にアスリートの腸内細菌データをベースにヘルスケア・フードテック事業を展開するAuB(オーブ)株式会社を設立。
来歴

小学生時代は清水FCに所属し、1993年の第17回全日本少年サッカー大会で準優勝を経験。また、中学時代は東海大一中(現在の東海大学付属静岡翔洋中学校)の一員として全国中学校サッカー大会優勝の原動力となった。

東海大翔洋高校卒業後、2000年浦和レッズに加入[2] し、天皇杯でプロ初出場。翌年のヴィッセル神戸戦でリーグ戦初出場を果たし、そのままレギュラーに定着。2002年からはアテネオリンピックを目指すU-23サッカー日本代表にも招集されるようになり最終予選ではキャプテンも務めるも、監督であった山本昌邦が複数ポジションをこなせるユーティリティプレイヤーを好んで選出したため、本大会には選出されなかった。

2006年、日本代表監督にイビチャ・オシムが就任。A代表に初招集され、同年8月9日キリンチャレンジカップトリニダード・トバゴ戦で初出場し、以後オシムジャパンでは唯一全試合先発出場を続けた。

また、クラブでの活躍により2006年、2007年と2年連続でJリーグベストイレブンに選出され、2007年にはサッカー担当記者選出の日本年間最優秀選手賞を受賞している[2]

2008年は前年まで浦和、日本代表で過密日程の中、フル稼働した疲労が溜まった影響か、扁桃炎の発症や度重なる負傷に苛まれ、苦しいシーズンを送った。また、代表でも扁桃炎で離脱している間に長谷部誠ボランチの定位置を奪われ、病気から復帰した後も本来のプレーを取り戻せないことも相まって2008年6月以降は日本代表に招集されていない。

2009年山田暢久に替わり、チームキャプテンに就任。主に阿部勇樹ボランチでコンビを組み、大きな怪我も無くほぼフル稼働し、浦和の中盤を支え続けた。また、9月19日J1第26節川崎フロンターレ戦では自身2年振りとなるゴールも記録した。

2010年も引き続きチームキャプテンに就任。しかし、細貝萌の台頭などもあり、序盤は阿部勇樹、細貝萌のボランチのコンビが機能していた影響で、自然にベンチを温める機会が多くなった。8月末に阿部がレスター・シティFCに移籍した影響でボランチの層が薄くなったものの、ここでも怪我などが重なりレギュラー奪取とは行かず、最終的に公式戦出場試合数は前年の約半分程に減った。

2011年ゼリコ・ペトロビッチ新監督からチームキャプテンに指名され[3]、これで3年連続でチームキャプテンを任される形となった。この年はプレシーズンマッチから先発で起用されたが、開幕戦の神戸戦で退場処分を受け、東日本大震災中断明けの第7節名古屋グランパス戦は出場停止となり欠場。その後、出場停止明けの数試合は山田暢久にボランチのポジションを譲ったが、程なくしてレギュラーに復帰。監督が堀孝史に交代後は4-1-4-1システムのアンカーのポジションを任され、J1残留に大きく貢献した。

2012年は阿部勇樹が復帰したことで3年続いたチームキャプテンを譲る形となった。怪我も無く、阿部と共にほぼ全試合に出場した。天皇杯2回戦ヴォルカ鹿児島戦で、後半開始から阿部勇樹センターバック、鈴木啓太ボランチで入ったものの、攻守にバランスが取れなかったことからポジションチェンジが行われ、公式戦で初めてセンターバックに入った。

2013年Jリーグでは、那須大亮の加入もありゲーム終盤では、トップ下に入る試合が増えた。また、ACLでは那須がボランチ出場するためベンチスタートが続いたが、永田充の怪我で那須のセンターバック起用によってACLでもボランチ出場している。

2014年は序盤スタメン出場が続いていたが、青木拓矢が怪我から復調すると徐々にベンチスタートが多くなっていった。シーズン中盤からは再びスタメン出場を続けていたが、Jリーグ第31節横浜F・マリノス戦の試合途中に突然体調不良に見舞われハーフタイムで交代した。その後の診断結果で不整脈と診断されドクターが付き経過を観察していたが、状態が安定して来た為、第34節名古屋グランパス戦でベンチ入りし後半86分に途中出場したものの、皮肉にも自身のパスミスからカウンターを喰らい永井謙佑に逆転ゴールを奪われ[4]、逆転負けを喫してしまった。


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