「鈴木唯」とは別人です。
鈴木 唯一
誕生 (1845-02-21) 1845年2月21日(弘化2年1月15日)
武蔵国江戸元飯田町掘留(現・東京都千代田区)
別名暢、重則(諱)、弥堅
死没 (1909-02-11) 1909年2月11日(63歳没)
千葉県夷隅郡大原町塩田(現・いすみ市)
職業英学者、官吏
国籍 日本
代表作『英政如何』(1868年)
『律例精義大意』(1875年)
『思想之法』(1879年)
子供儀蔵(継嗣)、りやう(長女・八田郁太郎妻)
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日本の政治家鈴木 唯一
東京府会議員
選挙区牛込区
在任期間1880年12月 - 1881年11月
牛込区会議員
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鈴木 唯一(すずき ゆいち[1] / ただいち[2]、1845年2月21日(弘化2年1月15日) - 1909年(明治42年)2月11日)は明治時代の日本の英学者。諱は暢、重則。名は本来惟一と書いたが、誤って広まった唯一を本人も用いるようになったという[3]。 弘化2年1月15日(1845年2月21日)、江戸元飯田町掘留に生まれる。幼名を亀吉といい、のちに良三、惟一と改めた。11歳で小間使いとなって旗本山口氏に仕え、16歳で元服し近習中小姓となった。この年、父に従って主人の知行地がある大和国に向かい、さらに翌年、主人に従い箱館に赴いている[4]。文久年間(1861-64年)には幕府の洋学研究教育機関・開成所の教官を務めていた英学者・箕作貞一郎(麟祥)に入門[5]。開成所にも学び、英学世話心得を経て慶応2年(1866年)12月に英学教授方出役に進んだ[6]。また慶応元年(1865年)以降、開成所の英字新聞翻訳事業にたずさわり、ジャパン・タイムズならびにジャパン・ヘラルドの訳出に従事[7]。慶応4年(明治元年・1868年)には、化学教官辻理之助(新次)が主宰する『遠近新聞』発行に加わり、本名および弥堅外史の名で記事を執筆したほか、訳述書『英政如何』を刊行した。なお、学力に秀でていた鈴木は、21歳の時に主人のはからいで与力広浜広之進の養子となったが、養家と意が合わず翌年に離縁となっている[8]。 明治改元後の11月、新政府の徴士となって議事取調を命じられ、ほどなく刑法官判事試補を兼ねた。明治2年(1869年)5月、開成学校二等教授となり、さらに7月の官制改革で新政府のもとに大学校(同年12月に大学と改称)が置かれると大学少博士に就任。翌年8月に大学中博士に進み、大学が廃され文部省が新設された明治4年(1871年)7月には文部中教授に更任されている[9][10]。この間、明治4年1月に大学中博士入江文郎、大学大助教小林儀秀(小太郎)とともに学術研究のため1年ほどの予定で欧州派遣を命じられ、英国に渡って主に論理学を研究[11]。翌明治5年6月(1872年7月)の帰国命令を受けて入江、小林より先に日本に戻った[12]。帰国後の同年8月、文部省編輯寮勤務となり、編輯寮が廃された9月には同寮の責任者であった箕作麟祥らとともに正院翻訳局に転じている[9][13]。正院の六等出仕となった鈴木は翌年3月に五等出仕に進み、翻訳局廃止後の明治8年(1875年)10月に退官したのち、明治14年(1881年)11月に文部省雇、翌年6月に同省准奏任御用掛となって再び在官。明治18年(1885年)12月に非職となるまで普通学務局(明治18年2月以降は学務二局)に勤務し、教科書調査や中等教員検定試験に従事した[9][14][15]。 退官後は著訳を職業とした。明治10年(1877年)には文部権大書記官となっていた辻新次らと汎愛社を設立。社長に就任し、同年6月から明治15年(1882年)10月まで雑誌『教育新誌』を発行している。そのほか、明治13年(1880年)に牛込区会議員に当選し、さらに同年12月から翌年11月まで同区選出の東京府会議員を務めた。また、明治24年(1891年)6月に京橋区学務委員に選出[15][16]。晩年は東京市教育会のために尽力した[17]。明治42年(1909年)2月11日、千葉県夷隅郡大原町塩田の別邸で死去し、青山墓地に葬られた。享年65[17]。継嗣・儀蔵は陸軍軍人、長女・りやうは陸軍少将八田郁太郎夫人[18]。
来歴
著作
「刑法ヲ待タズ私ニ人命ヲ絶ツヲ禁止スルノ議」(『議案録 第二』 明治2年4月)
吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第四巻 憲政篇
「銭ノ位ヲ定メ之ヲ其面ニ記スベキノ議」(『議案録 第三