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鈴木 博之
(すずき ひろゆき)
生誕1945年5月14日
東京都
死没 (2014-02-03) 2014年2月3日(68歳没)
東京都
国籍 日本
教育東京大学大学院
配偶者鈴木杜幾子(妻)
業績
専門分野建築史
勤務先東京大学
青山学院大学
受賞歴芸術選奨新人賞(1985年)
サントリー学芸賞(1990年)
鈴木 博之(すずき ひろゆき、1945年5月14日 - 2014年2月3日)は、日本の建築史家。工学博士(東京大学・1984年)(学位論文「ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊過程の研究」)。東京大学名誉教授。2005年紫綬褒章受章。位階は正四位、勲等は瑞宝中綬章。
東京大学工学部教授、東京大学大学院工学系研究科教授、青山学院大学総合文化政策学部教授、博物館明治村館長、公益財団法人明治村副理事長などを歴任した。 東京都生まれ。文京第一中学校、都立小石川高校を経て、1968年、東京大学工学部建築学科を卒業、大学院に進む。1974年に東京大学工学部の専任の講師となる[1]。1974年から1975年にかけて、ロンドン大学附属コートールド美術研究所に留学していた[1]。東京大学工学部の助教授を経て教授に就任し、建築学科にて教鞭を執る[1]。そののち、東京大学大学院工学系研究科の教授として、建築学専攻で教鞭を執る[1]。また、ハーバード大学や早稲田大学にて客員教授も務めた[1]。2005年には、紫綬褒章を受章した。 2009年に定年退職し、青山学院大学の総合文化政策学部にて教授に就任した。また、2010年4月1日からは、愛知県犬山市にある博物館明治村の館長も務めていた[2]。 2012年、国立競技場のデザインコンペで、旧知の安藤忠雄審査委員長[6]らと共に、審査に加わった。その後の2013年の講演では「当選案のザハ案は、その技術的挑戦課題も含め、(丹下健三の)代々木体育館へのオマージュとも解釈でき、圧倒的に優れていた」と語った[7]。最終審査(二次投票)の際に17番のザハ案を1位に選んだのは10名中4名(鈴木教授[8] と安藤と利活用グループ都倉俊一と外国人審査委員1名の事前評価と)だった[9]。『建築ジャーナル』2014年1月号では「やすい仮設ばかりを金科玉条として追求するのでは、未来に対する文化的遺産を形成することはできない」との見解も示した[10]。 2014年2月3日午前8時59分、肺炎のため東京都内の病院で死去[11]。68歳没。同日付で瑞宝中綬章を授与された[12]。また、同時に正四位が授与された[13]。 1984年、「ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊過程の研究」により工学博士号を取得した。また、1985年、「建築の七つの力」により芸術選奨新人賞を受賞した。1990年、『東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」』によりサントリー学芸賞を受賞した。2000年以降の東京駅八重洲口や丸の内の再開発によって建てられたオフィスビルを「ビジネススーツ・ビル」と呼称したことでも知られる。特徴は抑えた色調、縦のストライプが目立つ外装、ダブルスキンと呼ばれるガラスの二重構成などがある[14]。 妻は美術史学者の鈴木杜幾子である。
来歴
研究
家族・親族
略歴
1945年 - 東京都にて誕生。
1968年 - 東京大学工学部卒業。
1974年 - 東京大学工学部講師。
1974年 - ロンドン大学附属コートールド美術研究所留学。
1978年 - 東京大学工学部助教授。
1990年 - 東京大学工学部教授。
1993年 - ハーバード大学客員教授。
1997年 - 日本建築学会副会長。
2000年 - 早稲田大学客員教授。
2009年 - 青山学院大学総合文化政策学部教授。
2010年 - 博物館明治村館長。
2014年 - 東京都にて死去。
賞歴
1985年 - 芸術選奨新人賞。
1990年 - サントリー学芸賞。
栄典
2005年 - 紫綬褒章[15]。
2014年 - 瑞宝中綬章。
2014年 - 正四位。
著書
『建築の世紀末』晶文社 1977年
『建築は兵士ではない』鹿島出版会 1980年
『ジェントルマンの文化 建築から見た英国』日本経済新聞社 1982年
『建築の七つの力』鹿島出版会 1984年
『空間を造る 現代建築への招待』「NHK市民大学」日本放送出版協会 1986年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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