鈴木千尋_(声優)
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すずき ちひろ
鈴木 千尋
プロフィール
本名鈴木 千尋[1]
愛称ちーちゃん、ちーくん
性別男性
出身地 日本山形県[2]
生年月日 (1977-02-17) 1977年2月17日(47歳)
血液型A型[2]
身長165 cm[2]
職業声優
事務所フリー(オフィスモノリスと業務提携[2]
公式サイト ⇒MAHARO'Sオフィシャルウェブサイト
活動
活動期間1998年 -
デビュー作有馬総一郎(『彼氏彼女の事情』)[3]
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

鈴木 千尋(すずき ちひろ、1977年2月17日[2] - )は、日本男性声優山形県出身[2]フリーであり、オフィスモノリスと業務提携[2]
経歴
生い立ち

母親がアマチュアで演劇活動をしていたことから、幼い頃より舞台に親しんだという[4]

小学生の時、学芸会で芝居をする機会があったが、通っていた学校は成績が良い子しか主役を演じさせてくれなかった[4]。鈴木自身は成績があまりよくないため、主役を演じさせてくれなかったという[4]

その時の演目が、布袋様恵比寿様が相撲とる、といった絵本の話が題材であり、そのどちらかを演じたかった[4]。しかし主役を演じたのは児童会長と副会長のような人物たちが演じ、鈴木は相撲をとる2人を盛り上げるネズミ役を演じた[4]。その時はじっと座ってる喋らない役であり、それが少しショックだったという[4]。布袋様と恵比寿様のどちらかを演じていたら、そこで満足し、2010年時点のはここにはいなかったかもしれないと語る[4]

中学進学後、演劇部もなく、劇団に入団することもなかったため、中学時代は両親がしていたテニス部に所属[4]。当初は軟式テニス部に所属していたが、3年生の時に硬式テニス部が新設されてからは、そちらを中心に活動していた[5]。同じくテニス部に所属していた友人に貸してもらった山寺宏一といった声優達が出演していたミニドラマ的なショートコントのようなCDのようなもので初めて、職業としての声優を知った[4]。中学時代は応援団だった[5]

CDから声優の面白さに興味を持ち、中学卒業記念に友人と一緒にそのCDドラマの内容をすべて台本に起こして演じており、遊んで作っていたカセットテープが、声優初体験だったと語る[4]

しかし鈴木は仲間内で楽しむだけであり、プロを目指そうとも思っておらず、「大学に進学することが当たり前だ」と思っていた[4]。声優志望だった友人に夢を託していたが、その友人は大学に合格し、声優の道には行かなかったという[4]

中学時代の成績は良くなく、高校時代は国語がいきなり好きだった時期もあり、国語と元々得意だった美術だけは、高校1年生から高校3年生まで5だった[5]。ただし、英語、数学は全くダメで放課後、居残りさせられたこともあり、完全に文系だった[5]

高校時代は美術部に所属して、油絵を描いていた[6]美術大学を目指しており[4]、「油絵だけじゃなくてアクリル絵の具とかもっと違った画材も使えるのが面白そうだな」と思っていた[6]。しかし美術大学の受験には5教科が必要であり、国語と美術は成績が良かったが、ほかがダメであり、結局は大学に不合格[6]。「さあ、どうしよう」となっていた時に、「声優になりたい!」という熱が生まれたという[6]

高校卒業後、代々木アニメーション学院仙台校で1年、東京の日本ナレーション演技研究所で2年学び[6][7]、その後アイムエンタープライズに所属する[3]。父親が銀行員であり、親類も公務員が多かったために、声優という不安定な職業に就くことを反対されていた。当時、日本ナレーション演技研究所の社長が、仙台校に来て、オーディションをしてくれた[6]。その時は卒業公演で主役を狙ってたが、見事に落選して、挫折感でいっぱいだった[6]。「くそーっ」と思い、このオーディションも「普通にやったって受からないな」、「どうせダメなら全力でやってやるって!」と思い、ある程度ポエムを覚えて、ほとんど見ないで、でんぐり返しなどし、体動かして演じていた[7]。「これでダメだったらしょうがないや」と思っていたところ、見ていた社長が「鈴木くんだったね。鈴木くんは今まで仕事やったことあるの?」と聞かれていた[7]。その時に「なんでそんなこと言うんだろう」と思いながらも、「ないです」と答えていたところ、「そうですか、わかりました」と終わったという[7]。専門学校時代の1年間は父親とほとんど口を利かなかったが、養成所の入所試験に合格し「わかった。お金のことは心配せずに東京に行きなさい」と言ってもらい、上京を許される[7]

日本ナレーション演技研究所時代、当時のクラスは特待生の保志総一朗と一緒に勉強していたことからトップばかりだった[7]。講師を務めていた沢木郁也に、初日で何度もダメ出しをされて、「だめだ、山形に帰ろう。無理だ、続かない」と相当ヘコまされ、初めて実家に泣き言も言っていた[7]

その時、授業が終えた後、保志に「帰るの? 飲みに行くけど行かない?」と飲み会に誘われた[7]。行っていたところ、沢木が席の目の前にいたが、話していたところ、すごく気に入ってくれたようで、「あと1年で卒業できるんだから俺のところにいろ」とかわいがってもらい、2年目の時には卒業用のテープの主役に入れてくれたという[7]


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