この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年8月)
すずき こう
鈴木 剛
生誕 (1896-07-25) 1896年7月25日
広島県高宮郡可部町(現在の広島市安佐北区)
死没 (1986-12-16) 1986年12月16日(90歳没)
国籍 日本
出身校京都大学経済学部
職業実業家
栄誉紺綬褒章(1963年)
勲二等瑞宝章(1981年)
テンプレートを表示
鈴木 剛(すずき こう、1896年(明治29年)7月25日 - 1986年(昭和61年)12月16日)は、日本の実業家。住友銀行頭取、大阪テレビ放送社長、朝日放送社長、ホテルプラザ社長を歴任した。住友グループの社長会である白水会の名付け親でもある。 1896年、広島県高宮郡可部町(現在の広島市安佐北区)生まれ。現在の庄原市・福山市などで育つ。広島中学校(現在の広島県立国泰寺高校)では谷川昇や田部武雄の兄・謙二と同級で親友であった。第三高等学校を経て、1919年に経済学部が創設された京都大学同学部に入学。河上肇、神戸正雄、小川郷太郎らに学ぶ。卒業後、1922年4月に住友へ入社する。当時の住友は商事がなかったので銅山へ行かされるか、販売あたりかと考えていたら銀行に配属されがっかりしたという。第一歩を神戸支店で過ごし入社して5年目に上海支店に転勤となる。上海に着いた晩、?介石率いる軍隊が広東から北上し上海市街地をとりまき、翌日から?介石軍と軍閥の孫伝芳軍との間に市街戦が始まった。第一次上海事変が起こった1932年に内地に帰り、京都支店、大阪西野田支店に配属になる。西野田支店長時代、住友銀行の融資先であった松下電器産業の創業者松下幸之助や当時は松下の専務取締役で後に三洋電機を独立することとなる井植歳男と会い、交流を深める。太平洋戦争時には軍需融資部長などを務めた。 1945年11月、GHQにより住友本社は解体させられ、同時に住友銀行も社長の岡橋林は、後事を副社長の野田哲造に託して39年に渡る銀行家生活を終えた。しかしわずか1年あまりで野田哲造が公職追放により、1947年2月に辞任する。直ちに鈴木剛、堀田庄三、松本三郎
来歴・人物
終戦後の大阪財界立て直しに経済人の会合の場を設けようと1948年2月、「クラブ関西」を発足。理事長となってその運営にあたった。また朝比奈隆と親交を結び、「日本第二の都市・大阪に交響楽団ひとつないのはおかしい、ぜひいい楽団をつくりましょう」と、1947年に現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団結成に代表世話人として尽力し、1950年4月、社団法人関西交響楽協会が設立されるとその理事長に就任した。また広島一中の後輩で東横映画(のちの東映)の社長だった黒川渉三に頼まれ、同社の11億円(2010年代の貨幣価値に換算すると約200億円)の借金の融資を行った[1][2]。鈴木、百瀬結常務と交渉を行ったのは五島慶太・五島昇親子である[2]。東映再建が失敗していたら五島家は破産していたといわれる[2]。東映のメインバンクが住友になったのはこのときから[1]。
頭取辞任後も会長として残らず、1955年に元住友本社総理事古田俊之助のすすめで大阪ではじめてスタートしたテレビ放送会社・大阪テレビ放送の社長[注 2]となり、1959年には朝日放送社長に就任。朝日放送社長は1968年5月まで務めたが、この間、意欲的な番組作りを行った。ラジオ部門(ABCラジオ)の地歩固めにも尽力した。
朝日放送は入居していた中之島の朝日ビルが手狭になったため、1966年、本社を大淀区(現在の北区)大淀南に移転させ、本社屋と大阪タワーを建設。さらに広大な土地が余ったため、ホテル建設を思いつく。当時の大阪には東京と比べ国際的に通用するような格調高いホテルはまだほとんどなかった。