鈴木利男
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その他の「すずきとしお」の同名の人物については「Wikipedia:索引 すすき#すすきと」をご覧ください。

鈴木 利男
Toshio Suzuki
基本情報
国籍 日本
出身地埼玉県
生年月日 (1955-03-10) 1955年3月10日(69歳)
F1での経歴
活動時期1993
所属チームラルース
出走回数2
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1993年日本GP
初勝利-
最終勝利-
最終戦1993年オーストラリアGP
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鈴木 利男(すずき としお、1955年3月10日 - )は、日本レーシングドライバー実業家埼玉県出身。身長170cm、血液型B型
プロフィール
デビュー

1975年と1976年に全日本カート選手権シリーズチャンピオンとなり、1978年にFL500で四輪レースデビュー。1979年に日本F3チャレンジカップ(全日本F3選手権)の初代チャンピオンを獲得。その後、イギリスF3にも参戦した。
活躍トヨタTS020

その後1980年代から2000年代にかけて、全日本F2選手権全日本F3000選手権フォーミュラ・ニッポン全日本ツーリングカー選手権全日本GT選手権と、全日本選手権格式の様々なレースで活躍し、数々の優勝や表彰台圏内の上位入賞を果たした。
F1ラルースLH93

1987年ホンダF1エンジンのテストドライバーとして国内でのF1エンジンテストを担当した[1]。38歳となった1993年には、全日本F3000選手権や全日本ツーリングカー選手権で常に上位を走る円熟の走りに加えてユニバーサルエンターテインメントからスポンサー支援を受けていた鈴木に資金難に陥っていたラルースチームが白羽の矢を立て、1993年のF1終盤2戦の日本GPオーストラリアGPにスポット参戦し、パワーに劣るマシンの為下位ながら2戦とも完走を果たした。なお、このラルースでのスポット参戦が実現したきっかけは、日産のグループCカーのテストでポール・リカール・サーキットを訪れた際に鈴木が「そういえばラルースチームはここから近いんだよね、ちょっとでいいからここでF1に乗せてもらえないかな」とコメントしていたことがジェラール・ラルースの耳まで届いた事で動き始め、9月のイタリアグランプリから参戦する可能性もあった。鈴木はモンツァでイタリアGPを現地視察し、直後にシート合わせとテスト走行を経ての日本GPデビューだった。ラルース・LH93に乗った感想を「今までいろいろなカテゴリーに乗ってきて、このF1の挙動が一番レーシングカートに似てましたね」と語った[2]

1994年、日本人実業家と共同でパシフィックに資本参加する形で、ドライバーとして長期にわたってチームに関わる計画が立てられたが、テストドライブの段階に来て計画が頓挫した。同年秋には無限ホンダエンジンを搭載するチーム・ロータスF1日本GPでのスポット参戦交渉をしたと報じられるも、結果的にロータスのピーター・コリンズミカ・サロの起用を決めたため実現に至らなかった[3]。同時期には前年パイプが出来ていたラルースとも交渉し、翌'95年のレギュラシートも含めた参戦を模索していると報じられたが、ラルースが1995年開幕前にF1撤退となったため幻となった[4]
さらなる活躍

世界三大レースの一つに数えられるル・マン24時間レースにもワークスやプライベートで多数参戦し、1999年には総合2位を獲得したほか、1992年デイトナ24時間レースでは、林義正水野和敏が率いる日産自動車ワークスにて、星野一義長谷見昌弘と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げた。

またの1995年には、デビューイヤーながら3勝を挙げた高木虎之介を抑え、全日本F3000選手権でシリーズチャンピオンを獲得した。なお全日本F3000はこの年限りで終了しフォーミュラ・ニッポンへと移行したため、鈴木が最後のチャンピオンとなった。

この他、1996年にはNASCARブッシュシリーズ、Meridian Advantage 200(ナザレス・スピードウェイ)にスポット参戦し、終盤にクラッシュしながらも33位でフィニッシュした[5]

2008年、東海大学工学部動力機械学科のル・マンプロジェクトよりル・マン24時間レースに参戦した。また、イギリスの自動車番組「トップギア」の特番「世界の国民車」では、ダイハツ・コペン(L880K型)でホンダ・カブに乗ったジェームズ・メイと、出前そばの配達で競争している。コペンが用意された経緯は「鈴木氏はスズキに乗りたくないだろう」とのことで、その件には苦笑していた。
監督

2006年9月には、ディレクシブのモータースポーツ界からの撤退に伴い、同チームを引き継ぐ形でSUPER GTに参戦するR&D SPORTの新チームのチーム監督に就任した。林義正との交流は現在でも続き、東海大学StudyCarのドライバーを務めている。また、同車により採取されたデータを元に製作される東海大学のプロトタイプレーシングカーのドライバーも兼務する。
現在

2009年からは日産公認のGT-Rをはじめとする国内外のスポーツカーのメンテナンス・チューニング等を行うサービス工場、「NordRing(ノルドリンク)」の代表を務めている。また65歳を超えても引退はしておらず、2021年にもスーパー耐久黒澤琢弥らとともにトヨタ・スープラで参戦している。
GT-Rへの関わり

2004年から水野和敏の下で開発が始まった日産・GT-Rのテストドライバーを務めていた。2008年4月17日にドイツニュルブルクリンクにて7分29秒3という当時の市販車最速タイムを記録し、さらに2009年4月23日には7分26秒70まで記録を更新した。2010年10月1日は、2011年式GT-Rで7分24秒22を記録している。ただ2013年3月に水野が日産を退社したため、それに合わせる形で鈴木もテストドライバーを退いている[6]
レース戦績
FJ1300

年マシン1234567順位ポイント
1977年
マーチ・743SUZFSW
SUZ
SUZ
SUZ
SUZ
SUZ
7位
1978年ノバ・513SUZ
2TSU
FSW
2TSU
SUZ
TSU
SUZ
3位

全日本F3選手権

年チームシャーシエンジン1234567順位ポイント
1979年UNI-PEX ヒーローズレーシングラルト・RT-1トヨタ・2T-GSUZ
4FSW
2TSU
1FSW
16SUZ
1NIS
1SUZ
21位95

イギリス・フォーミュラ3選手権

年チームシャシーエンジンタイヤ車番123456789101112131415161718192021順位ポイント
1980年
マーチマーチ・803アルファロメオ12SILTHRBRHTHRSILTHRSNESILCADSIL
9BRH
10SIL
8BRH
15NC0
トヨタ・2T-G NovaOUL
10SIL
RetSIL
11MARSILOULTHR
1981年マーチマーチ・813トヨタ・2T-GB11SIL
8THR
9SIL
9MAR
RetTHR
7THR
10SNE
8SIL
20CADSIL
12*SIL
RetBRH
RetSIL
5MAR
16OUL
6SIL
RetOULSILSNETHRTHR17位3


* : ヨーロッパF3選手権との合同レース

全日本F2選手権/全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン

年チーム1234567891011順位ポイント
1980年UNI-PEX ヒーローズ マーチ792SUZNISSUZSUZCSUZ


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