鈴木修_(実業家)
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この項目では、スズキ相談役について記述しています。その他の同名の人物については「鈴木修」をご覧ください。

すずき おさむ
鈴木 修
国土交通省のオンライン講演会にて
講師を務めた際に
公表された肖像写真
生誕松田 修
(1930-01-30) 1930年1月30日(94歳)
岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市
国籍 日本
出身校中央大学法学部法律学科卒業(1953年)
職業実業家
団体ハンガリー名誉総領事
公益財団法人日印協会理事・副会長
静岡エフエム放送相談役
肩書きスズキ株式会社 相談役
子供鈴木俊宏(長男)
受賞勲二等旭日重光章
藍綬褒章
日本自動車殿堂殿堂者
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鈴木 修(すずき おさむ、1930年1月30日 - )は、日本実業家スズキ株式会社相談役公益財団法人スズキ財団顧問(前理事長)[1]

株式会社中央相互銀行勤務を経て、鈴木自動車工業株式会社代表取締役社長(第4代)・スズキ株式会社社長(初・第4代)・スズキ株式会社最高経営責任者(初代)・財団法人スズキ教育文化財団理事長(初代)・スズキ株式会社最高執行責任者(第3代)などを歴任。1987年11月藍綬褒章受章、2000年4月勲二等旭日重光章受章。
来歴
生い立ち

岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市)生まれ。旧姓は松田。戦後、東京都世田谷区の小学校で教員として働きながら中央大学に学び、「戦後の混乱期で大人たちはみんなストライキばかり。子供たちを前に身につまされる思いをした」という経験をしている。なお、当時の教え子の一人には後に参議院議長になる山東昭子がいた[2]

1953年3月中央大学法学部法律学科卒業。中央相互銀行(現在の愛知銀行)入行。1958年にスズキの2代目社長の鈴木俊三の娘婿となる。同年4月にスズキ入社。
実業家として2014年7月31日デリー連邦直轄地ニューデリーにて首相ナレンドラ・モディ(右)と

1963年11月に同社取締役就任。1967年12月に同社常務取締役1973年11月に同社専務取締役1978年6月に同社代表取締役社長に就任。2000年6月から代表取締役会長(CEO)を務める。2008年12月から代表取締役会長兼社長(CEO&COO)を務める。2015年6月から代表取締役会長(CEO)を務める。2016年6月にCEO職を辞任、代表取締役会長のみを務める。

1975年自動車排出ガス規制に対応が遅れたスズキを立て直し、社長就任直後に軽自動車アルト1979年発売)を主導。その後もワゴンR1993年発売)の発売など軽自動車の商品力を高めた。

海外進出を積極的に行い、インドでのマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ・インディア)社への積極的支援等を通し、アジア成長国での販売を伸ばした。一方、1981年には巨大自動車メーカーであるゼネラルモーターズ(GM)との業務提携を進め、さらに1990年代初めには欧州戦略拠点としてハンガリーへの工場進出も実施するなど様々に改革をした結果、社長就任時には1700億円であった売上高を、2007年3月期では3兆1636億円になるまでスズキを成長させ、世界的メーカーとして認知される基礎を築いた。

1971年12月日本自動車工業会理事、1981年3月中部瓦斯取締役、1991年中部実業団陸上競技連盟会長、1999年6月静岡エフエム放送会長(2005年6月から相談役)、2006年中部実業団陸上競技連盟会長に就任。公益財団法人日印協会理事・副会長をつとめる[3][4]

後継者と目され2001年に経済産業省の経済産業政策局企業行動課長を辞めてスズキに入社していた娘婿で取締役だった小野浩孝の健康問題(その後、2007年12月に逝去)に加え、前社長の津田紘が体調不良を理由に勇退したため、2008年12月11日付でスズキの代表取締役会長兼社長(CEO&COO)となり、兼務ではあるが8年ぶりに社長職に復帰した。社長復帰後はGMとの提携解消に加え、新たにフォルクスワーゲンとの包括的提携を結ぶなど、スズキの新たな社外アライアンスの構築に進めたが2011年9月12日にフォルクスワーゲンとの提携解消を発表し、記者会見の場で他社との提携について「今回で懲りた」と発言している[5]

2015年6月には、長男の鈴木俊宏に社長兼COOを禅譲し、会長兼CEOには留まることになった。鈴木家からの社長は2代目以降、修本人を含めて婿養子の就任が続いていたため、俊宏が創業者以来の鈴木家直系出身の社長となった。

2021年6月25日の株主総会で会長を退任、相談役に就いた[6][7][8]
人物

徹底した現場主義、
現実主義者として知られる。その経営手腕、歯に衣着せぬ言動などからマスコミの注目度も高く、『日本経済新聞』『日経ビジネス』などの新聞・雑誌のほか、『カンブリア宮殿』『ガイアの夜明け』など経済番組にも頻繁に登場している。また、全国各地に点在するディーラー小売店の整備工場へは自らの足で出向くほどフットワークが良いことで知られ、現場スタッフやユーザーの声を直に訊いたりするなど顧客の動向や問題点の洗い出し、販売戦略、製品改良等の探求(追求)に余念がない[9][10]

浜松市の市政にも深く関わり、元市長の北脇保之(1999年 - 2007年)、前市長の鈴木康友(2007年 - 2023年)はいずれも衆議院議員選挙立候補時から強力に支援している。その一方で浜松市の行財政改革推進審議会の会長(第2期)として市財政について将来の発展を見据えた厳しい指摘を行っている。

軽自動車の増税には否定派である。かつては「軽の税金を上げるだけでなく、リッターカー(具体的には軽自動車を除く総排気量が1,000cc以下の小型登録車)の税金を下げるという話ならいくらでも協力するのに」と発言した[11] ほか、軽の品質向上で登録車と差が無くなった事による不平には「軽自動車は寸法も排気量も厳しく制限されている。そのなかで素晴らしい4人乗りのクルマができているのは、軽メーカー各社の努力のたまもので、いわば芸術品のようなものだ。その努力を見ないで普通のクルマと同じようなものと言うのはいかがなものか」と反論[12]。また12代目キャリイ発表時には「軽自動車は比較的低所得の人が生活・仕事に使っている」として「(軽自動車の増税は)弱いものいじめと感じる」「こういう考え方がまかり通るということになると、残念というより、悲しいという表現が合っている」と発言。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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