日本の政治家鈴木 俊一すずき しゅんいち
政経社/総合エネルギー研究会『政経人』第14巻第8号 (1967) より
生年月日1910年11月6日
出生地東京府北多摩郡中神村(現・昭島市)[1]
没年月日 (2010-05-14) 2010年5月14日(99歳没)
出身校東京帝国大学法学部
(現・東京大学法学部)
前職国家公務員(内務省・地方自治庁・自治庁)
内閣官房副長官
東京都副知事
所属政党無所属
称号正三位
勲一等旭日大綬章
東京都名誉都民
北京市栄誉市民
鈴木 俊一(すずき しゅんいち、1910年〈明治43年〉11月6日 - 2010年〈平成22年〉5月14日)は、日本の政治家、内務・自治官僚。位階は正三位。東京都名誉都民、北京市栄誉市民[2]。
第9・10・11・12代東京都知事、東京都副知事、第2次岸内閣内閣官房副長官、自治事務次官等を歴任した。 1910年11月6日、東京府北多摩郡中神村(現・昭島市)に生まれる。父の鈴木俊雄は東京高等蚕糸学校を卒業し東京府蚕糸試験場の技師を務めた。妻の敦は内務省神社局長や警視総監を歴任した石田馨の長女である。長男の鈴木紘一は化学者で東京大学名誉教授、次男の鈴木悠二は元日本興業銀行常務であった。 山形県西村山郡七軒村(現・大江町)出身の父[3]のもと東京府北多摩郡中神村で生まれ育った[1]。母は東京府南多摩郡大蔵村(現・東京都町田市)の名家の出で、俊一の外祖父の中溝五郎は鶴川村(現・町田市)の村長をつとめた[4]。俊一の曾祖父の中溝昌弘は神奈川県議会議長[5]。親類には自由民権運動家の中溝昌孝や、近衛文麿直系の反共テロリスト中溝多摩吉(防共護国団)などがいた[6]。独文学者で東京帝大教授の青木昌吉(旧姓・中溝)は中溝昌弘の長男にあたる[7]。 東京府立第二中学校、三高、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1933年に内務省へ入省する。入省同期に富樫総一元労働事務次官など。1947年12月31日の内務省分割後は地方自治庁に配属され、1950年から1952年7月まで地方自治庁次長、1952年8月から1957年7月まで自治庁次長、1957年8月から1958年まで自治事務次官をそれぞれ務め、事務次官在任期間としては戦後最長の8年間だった。地方自治法をはじめとする地方財政法、自治大学校設置法
来歴
1958年(昭和33年)6月、第2次岸内閣で内閣官房副長官(事務担当)に就任し、岸信介首相を支える。6月17日より憲法調査会幹事を兼務[8]。翌1959年(昭和34年)6月12日、東龍太郎東京都知事の下、東京都副知事に就任し、1967年(昭和42年)まで務める。東は医学者出身で行政にはあまり詳しくなかったため、1964年東京オリンピックの開催を中心にした開発計画をまとめるなど、高度経済成長期の都政の実務は事実上副知事の鈴木が取りしきり、「東副知事・鈴木知事」などと揶揄されることもあった。
東は1967年(昭和42年)に3選不出馬を表明。鈴木は自由民主党から都知事選への立候補がほぼ決まりかけていたが、革新陣営が知名度の高い美濃部亮吉を擁立したため、実現しなかった[9]。自民党は民社党が擁立した立教大学の松下正寿総長を推薦したが、日本社会党・日本共産党推薦の美濃部に敗れた[10]。
東京都副知事退任後、日本万国博覧会事務総長を務め、大阪万博に携わった。また、首都高速道路公団理事長にも就任した。
1979年東京都知事選挙に自民・公明・民社・新自由クラブ4党推薦で出馬し、3期で勇退する美濃部知事の事実上の後継者であった社共推薦の太田薫総評議長、無所属の麻生良方らを破り、初当選。革新陣営から都政を奪還する。以後、1995年(平成7年)4月まで、4期16年の長きにわたり東京都知事を務めた。
都知事就任後、鈴木が最初に直面した課題は前任の美濃部が残した膨大な財政赤字の解消だった。鈴木は老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げる。のちに長野県知事を務めた田中康夫は、黒字化を達成するためには相応のことが必要であるにもかかわらず、鈴木の行財政改革についてほとんど批判を見聞きしないことから鈴木都政に関心を持ち、週刊文春での連載「トーキョー大沈入」でも取り上げている。当時は3期目で70代の後半になっていたが、中曽根康弘首相の余暇の過ごし方を聞いた鈴木の秘書がどうすればスケジュールが空けられるか嘆くほどの仕事ぶりだったという[11]。のちの1991年東京都知事選挙のさなかに建設が進められていた新宿区の東京都庁舎が華美過ぎるとの批判を鈴木が受けていた時期にも、田中は鈴木を擁護している[12]。