釧路郡(くしろぐん)は、北海道(釧路国)釧路総合振興局の郡。
人口18,499人、面積252.04km²、人口密度73.4人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に釧路市の大部分(音別町各町・阿寒町各町・大楽毛各町・星が浦各町・新野各町および鶴野各町・音羽・鳥取大通・鳥取北の一部を除く)を加えた区域にあたる。 江戸時代の釧路郡域は、寛永年間には松前藩によってクスリ場所が開かれていた。 江戸時代以前から明治時代初頭の交通について、陸上交通は、沿岸部沿いに渡島国の箱館から千島国方面に至る道の途上となっており、文化2年には西の白糠郡方面から釧路郡に至る道(国道38号の前身)が、釧路郡から東の厚岸郡に至る道(道道根室浜中釧路線の前身)も寛政11年から12年にかけて釧路 - 仙鳳趾(せんぽうし)間9里(35.3km)に馬の通行にも支障ない道が、文化5年に箱館奉行の許可を受け蝦夷を雇った厚岸在住の士丹羽金助によって、厚岸 - 仙鳳趾間約5里半(21.6km)が開削されている。海上交通は、北前船の航路が開かれ釧路に寄航することもあった。 江戸時代中期の寛延4年には後の釧路市城山に相当する地域に蝦夷(アイヌ)によってモシリヤチャシが築造されている。江戸時代後期、釧路郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年釧路郡域は天領とされた。厳島神社はこの頃の創建である。文政4年に釧路郡域は一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して釧路郡が置かれた。郡名の決める際に松浦武四郎は国名を「釧路国」としておきながら「久摺(くすり)郡」を提案、範囲は「西をタノシケより東コンフイ番屋元川中界」とし、また「西コンブイより東アッケシ界モセウシ迄」を善報(せんぽう)郡を建てることも提案したが、久摺郡と善報郡
釧路町(くしろちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の釧路郡の町村(3.釧路町[第1次] 4.鳥取村 5.昆布森村 紫:釧路市 紫:釧路市 桃:釧路町[第2次])
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、釧路国および釧路郡が設置される。開拓使が管轄。
8月17日(1869年9月22日) - 佐賀藩の領地となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。