針ノ木岳
大観峰から望む針ノ木岳(正面右)、左はスバリ岳、眼下に黒部湖
標高2,820.60[1] m
所在地 日本
富山県中新川郡立山町
長野県大町市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度32分17秒 東経137度41分04秒 / 北緯36.53806度 東経137.68444度 / 36.53806; 137.68444
針ノ木岳(はりのきだけ)は、富山県中新川郡立山町と長野県大町市にまたがる標高2,821 mの山。中部山岳国立公園内にあり[3]、後立山連峰に属する。 大糸線信濃大町駅の西北西10.4 kmに位置し、針ノ木峠[注釈 1]を挟んで蓮華岳と対峙している。大町側からは、大きな山容の蓮華岳が手前にあるため、針ノ木岳の方がやや標高が高いにもかかわらず、はっきりと見ることができない。ピラミッド型の端正な山容で、日本二百名山[4]及び新・花の百名山[5]に選定されている。東西の主稜線は同じような勾配であり、白馬岳のような後立山連峰の特長である非対称山稜は見られない[6]。高瀬川の支流である篭川の上流部に日本三大雪渓の一つ、針ノ木大雪渓がある。針ノ木岳の源流部の厩窪(マヤクボ)沢にはカール地形がみられる[7]。山体は濃飛流紋岩型の溶結凝灰岩からなる[8]。 この山が一般に針ノ木岳と呼ばれるようになったのは大正時代になってからである。大正の初めに日本山岳会の辻本満丸が鞍部にある針ノ木峠にちなんで命名した[7]。針ノ木とは周辺の谷に分布するミヤマハンノキのことである[8]。富山県側では「地蔵岳」と呼ばれていた[7]。一方、針ノ木峠は古くから知られている。天正年間に小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦った徳川家康に、豊臣方との和睦を破棄し徹底抗戦を主張するため富山城主の佐々成政が浜松城へ面会に行ったとき、厳冬期のこの峠を越えたとされている。1584年のことで、成政のこの行為を「さらさら越え」と呼んでいる。その際に膨大な金と銀を埋めたとする伝説がある[4]。
概要
名称の由来
歴史
古くから針ノ木峠は信州と越中を結ぶ立山詣者、杣人、商人、釣り人などの要路として利用されていたとされる[6][9]。
1584年(天正12年)12月 - 佐々成政ら百人程の一行が冬期の針ノ木峠越えを行った。
1665年(寛文5年)10月 - 加賀藩による奥山廻りが正式なものとなり、1870年(明治3年)に廃止されるまで巡視が行われ、一般の入山が規制された[8]。
1878年(明治11年) - 針ノ木峠を経由する越中越え富山までの立山新道が開拓。1880年には富山まで全通したものの、1883年には経営が成り立たなくなった[10]。近代登山としてこの頃に、アーネスト・サトウなど外国人登山者の入山が始まった[6][8]。
1893年(明治26年)8月 - 日本アルプスを世界に紹介したウォルター・ウェストンが、案内人と共に大町から針ノ木峠越えを行った[11]。
1910年(明治43年)夏 - 中村清太郎、辻本満丸、三枝威之助らのパーティーが縦走し、針ノ木岳と命名した[9]。8月に田部重治が立山温泉側から針ノ木峠越えを行った[12]。
1917年(大正6年) - ウォルター・ウェストンや深田久弥などとも交友がある百瀬慎太郎が登山案内人組合を結成した[4]。
1922年(大正11年) - 平村(現在の大町市)が、針ノ木岳雪渓の下部に大沢小屋を建設した[8]。
1923年(大正12年)2月?3月 - 伊藤孝一、百瀬慎太郎、燕山荘の創設者の赤沼千尋らが、日本初の山岳記録映画『雪の立山・針ノ木峠越え』の撮影に成功した[13]。
1925年(大正14年) - 百瀬慎太郎が、針ノ木岳雪渓の下部に大沢小屋を建設した[4]。
1927年(昭和2年)12月末 - 針ノ木谷の赤石沢で、早稲田大学山岳部のパーティーが雪崩で4名が死亡する遭難事故が発生した[4](早稲田大学山岳部針ノ木岳遭難事故)。
1930年(昭和5年)7月 - 百瀬慎太郎が針ノ木小屋を建設し、開業した[9]。
1934年(昭和9年)12月4日 - 針ノ木岳を含む飛騨山脈の山域が中部山岳国立公園に指定され、様々な規制が適用された[3]。