釜石鉱山田中製鉄所
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往時の集合写真。

釜石鉱山田中製鉄所(かまいしこうざん たなかせいてつじょ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:釜石鑛山田中製鐵所󠄁)は、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所である。1887年(明治20年)7月に設立され、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せた。コークスを使った銑鉄の産出も同所が最初であり、日本で初めて安定稼動した銑鋼一貫製鉄所でもある。田中家の個人経営だったものが1917年(大正6年)に株式会社化され、以降は田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となる。
歴史
官営製鉄所の挫折

1875年(明治8年)1月より岩手県釜石にて建設が始まった日本初の官営製鐵所は、溶鉱炉から諸機械類、煉瓦まで全て英国製のものを使い、その組立て設置にも英国人とドイツ人技師を雇用。英国で長く採鉱冶金学を学び帰国した山田純安もこの任に当たらせた[1]

銑鉄を造る製銑工場には鉄皮式スコットランド型25t高炉が2基、錬鉄工場には錬鉄炉が12基、その他様々な設備を整え、さらには大橋採鉱場から製鉄所のある鈴子まで、小川製炭所から釜石港桟橋までの鉄道釜石鉄道)を敷設し、その費用総額は当時の官営事業の中でも最大規模の237万円に達した。

1880年(明治13年)9月には5年がかりの工事も終わり、高炉に火入れをして操業が開始されたが、一日一万貫(37.5t)必要な木炭の供給が賄えず、また小川製炭所が火事で焼けたこともあり、わずか97日で操業を停止した。この間使用した鉄鉱石は2,357t、生産した銑鉄は1,508tで、一日平均15t強という成績であった。1881年(明治14年)9月には休業中の製鉄所を後に首相となる原敬が記者として訪れている[2]

その後木炭供給の問題を解決し、1882年(明治15年)3月に操業を再開。一時は上手くいったかに思えたが、徐々に砿滓が出銑口を塞ぐ事態[注 1]となり再開後196日で再び停止。明治13年9月からの銑鉄通算生産高は計5,821tであった[3]

その後様々に議論されたが、当時まだ国内における鉄の需要が大きくなかったことや輸入銑鉄の方が安いこと[注 2]、釜石に調査に訪れた工部省の技師が、鉱石の埋蔵量はわずか13万t程度であろうと悲観的な報告をしたこともあり、1882年(明治15年)12月に廃山が決定した。
田中家の挑戦

個々の設備の払い下げには多くの事業者が手を挙げた[注 3]が、国が膨大な資金と外国人技術者を用いてすら失敗した鉱山及び製鉄事業そのものを引き受けようという者は皆無であった。そんな折、当時大蔵大臣を務めており、明治維新以前から知遇を得ていた松方正義より 田中長兵衛に払い下げの打診がある[5]。松方からの話とあっては検討しないわけにはいかず、長兵衛は娘婿で番頭格の横山久太郎を伴って釜石視察へと向かった。その頃の釜石は1882年(明治15年)夏にコレラの大流行があり、翌年4月の勘兵衛火事では石応寺本堂を含む600軒が焼け、明るい兆しは何一つ無かった。製鉄所の様子もまた、機械類は壊れ溶鉱炉の内部に銑鉄の塊が打ち捨てられたままになっており、見るに忍びない様相であった。当初払い下げを受ける気になれなかった長兵衛だが、久太郎や長男・安太郎の熱心で粘り強い勧めもあり、ついに製鉄所再建への挑戦を決意。長兵衛は、久太郎を釜石の総責任者とし、官営時代の25t高炉が放置されていた鈴子に新たに2基の小型高炉(大島高任式、各3t)を作って銑鉄の製造(製銑)に当たらせた。官営時代の物を改修して使った30t高炉。明治27年(1894年)、ここから日本初のコークス銑が生まれた。

久太郎は官営時代の製鉄所で働いていた地元釜石出身の高橋亦助(1853-1918)を高炉操業主任として、村井源兵衛[注 4]を機械設備主任として雇い入れ、その他工員たちと共に製銑に挑戦するが、度重なる失敗によって資金は底をついてしまう。ついには工員らに支払う金も無くなり、久太郎自身の家財道具まで売り払う状況の中、1886年(明治19年)7月にはしびれを切らせた主人・長兵衛から東京出頭を命じられた。上京する久太郎から現場を託された高橋亦助は、何とか成功させたいという思いからその後2度の操業を試みるがいずれも失敗に終わる。やがて長兵衛自ら釜石に赴くという知らせが入り、それを待つのみとなった高橋亦助は全工員を集めて作業所の休業と解雇とを告げた。その晩、高橋亦助の夢に不思議な老人が現れ、これまで良い鉱石として使用していたものを不良だと言い、不良だとしていたものこそが真に良い鉱石だと告げて消え去ったという。

その翌朝、高橋亦助の元に昨日解雇した工員一同が訪れた。そして、度重なる失敗が続き解雇も仕方が無いとは思うがこのまま終わるにはどうしても諦めきれない、家族に食べさせる食糧さえあれば賃金は要らないのでどうかもう少し挑戦させて欲しい、と懇願した。さらに彼らは、これまで不良として使われなかった鉱石をぜひ試してほしいと言う。夢の話との奇妙な一致にもう一度挑戦することを決めた高橋亦助が工員らと共に迎えた通算49回目、鉄は途切れることなく流れ出し、長い苦難の道を経てついに成功するに至った[6][注 5]。この日、1886年(明治19年)10月16日は後に釜石製鉄所の創業記念日となった。
製鉄所設立

1887年(明治20年)2月、田中長兵衛は大蔵大臣の松方正義に設備一切払い下げの上願書と素志書を提出。そして同年7月に設立されたのが釜石鉱山田中製鉄所である。横山久太郎は初代所長に任命され、安太郎は東京の京橋区北紺屋町の店を田中本店として、父を助け釜石で造られた製品を販売することとなった[8]門に掲げられた釜石鑛山田中製鐵所の表札が見える。大橋分工場

同年、採鉱場のある甲子村大橋に第3の高炉を建設し分工場を開設。翌1888年(明治21年)1月には陸海軍と鉄道局の工場で釜石の鉄が採用される。1890年(明治23年)の銑鉄年間生産高は4,000tで、日本国内で年間2万t生産されたうちの約20%に過ぎず、残りの80%は古来よりたたら砂鉄精錬が盛んな中国地方に占められていたが、鉄に対する時代の需要に応えて釜石はその生産量を伸ばしていく。

1890年(明治23年)には大阪砲兵工廠において当時世界的に評価の高かったイタリアのグレゴリーニ製銑鉄よりも釜石製銑鉄の方がより優れていることが立証された。製鋼原料としての釜石銑もまたクルップ社製、H・レミー社製の物に匹敵し、その上クルップ社に対して3割、レミー社に対しては6割安価に作成できることも判明している[9]

製鉄所の事業が軌道に乗ってきた頃、当時まだ銀行が無かったこの地域で「鉱山札」という製鉄所が発行する地域通貨が使われていた[注 6]。釜石のみならず宮古、花巻、遠野まで流通し信用性も高かったが、1896年(明治29年)に税務署からの注意があり廃止となった。製鉄所に勤める工員は東北各地からの農民出身者がほとんどであり、諸々の事情により田畑を手放すなどして流れ着いた者も多かった。事故や怪我も珍しくなかったので山神社への参拝を欠かさなかったという[11]

1893年(明治26年)に長兵衛は廃止されていた釜石鉱山鉄道馬車鉄道として再開。1894年(明治27年)にはドイツの鉱山大学で学び、帰国後は東京帝大工科大学で教授をしていた冶金学者の野呂景義(1854-1923)を顧問に、その弟子・香村小録(1866-1939)を現場の技師長に迎え、野呂が提唱したコークス利用の製銑法に挑戦。改修し30tに大型化した官営時代の高炉で、日本初の「コークス銑」[注 7]の産出にも成功した[注 8]。この時の初湯で鋳造した扁額釜石製鐵所山神社に掲げられている。


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