金閣寺_(小説)
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金閣寺
金閣寺の雪景色(京都市
訳題The Temple of the Golden Pavilion
作者三島由紀夫
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『新潮1956年1月号 - 10月号
刊本情報
出版元新潮社
出版年月日1956年10月30日(限定版と同時刊行)
装幀今野忠一(通常版)
寺本美茂(限定版)
総ページ数263
受賞
第8回・1956年度読売文学賞(小説部門)
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『金閣寺』(きんかくじ)は、三島由紀夫長編小説。三島の最も成功した代表作というだけでなく、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされ、海外でも評価が高い作品である[1][2][3]金閣寺に憑りつかれた学僧が、それに放火するまでの経緯を一人称告白体の形で綴ってゆく物語で、戦中戦後の時代を背景に、重度の吃音症宿命、人生との間に立ちはだかる金閣の美への呪詛と執着のアンビバレントな心理や観念が、硬質で精緻な文体で綴られている。それまで三島に対し懐疑的否定的な評価をしていた旧文壇の主流派や左翼系の作家も高評価をし[1][4]、名実ともに三島が日本文学の代表的作家の地位を築いた作品である[3][5]

1956年(昭和31年)、文芸雑誌『新潮』1月号から10月号に連載された[6][5]。単行本は同年10月30日に新潮社より刊行され、15万部のベストセラーとなった[4][注釈 1]読売新聞アンケートで、昭和31年度ベストワンに選ばれ、第8回(1956年度)読売文学賞(小説部門)を受賞した[3][7]。文庫版は新潮文庫で刊行され、2020年11月時点で累計売上361万8千部を記録しているロングセラー小説でもある[8]。翻訳版は1959年(昭和34年)のアイヴァン・モリス訳(英題:The Temple of the Golden Pavilion)をはじめ、世界各国多数で刊行され[9]、1964年度の第4回国際文学賞で第2位を受賞した[10][5]
執筆背景・動機
題材・モデル

『金閣寺』の題材は、1950年(昭和25年)7月2日未明に実際に起きた「金閣寺放火事件」から取られたが、三島独自の人物造型、観念を加え構築し、文学作品として構成している[11][3]。三島の没後30年の2000年(平成12年)に全公開された「『金閣寺』創作ノート」には、より詳細な構想の過程が見て取れる[12][4][注釈 2]。構想には、「金閣寺放火事件」について小林秀雄が述べたエッセイ「金閣焼亡」(1950年9月)からの刺激もあったとされる[14][15]。また奥野健男が『太宰治論』を書く際に参考にしたミンコフスキー著の『精神分裂病』(La schizophrenie) を勧められ、『金閣寺』の執筆以前に読んでいたとされる[1][注釈 3]

1955年(昭和30年)9月から、肉体改造(ボディビル)に乗り出した三島(当時30歳)は、「行為」の意味を模索し始め、その5年前に起った「金閣寺放火事件」の犯人・林養賢の犯罪事件(に対する反感)を、「美への行為」と見なすことで、そこに三島自身の問題性、文学的モチーフを盛り込み、自らの人生の主題を賭ける新たな素材とした[3][4]。また「創作ノート」には、〈林養賢は書かざる芸術家、犯罪の天才〉という記述も見られ、戦後社会の風潮に違和感を持っていた三島が、「犯罪の形で表れる若者のプロテスト」に親近感を抱いていたと佐藤秀明は解説している[4]

三島は同年11月に京都に赴いたが、金閣寺(鹿苑寺)の直接取材や面談は断られたため、同じ臨済宗異派の妙心寺に泊まり、若い修行僧の生活を調べた[4]。金閣寺周辺取材について三島は、〈それこそ舐めるやうにスケッチして歩いた〉と語り[16]南禅寺大谷大学舞鶴近郊の成生岬由良川河口も丹念に文章スケッチされ、五番町などは実際に遊廓の一軒に上がり、二階の部屋の内部の様子や、中庭に干された洗濯物までも詳細に記述されている[12][4]。さらに、どうやって調査したのか、直接取材を断られたにもかかわらず、金閣寺内の間取りや数を記した室内図や作業場内部の図まで克明に描かれている[12][4]

なお、金閣寺の前で雪の上の娼婦を踏みつける場面は、歌舞伎『祇園祭礼信仰記』の「北山金閣寺の場」で松永大膳が雪舟の孫娘・雪姫(清原雪信がモデル)を金閣寺の前で足蹴にする場面をヒントに創作したことを三島は村松剛に言っていたとされる[14]
実際の事件との違い

金閣寺放火事件」の犯人・林養賢も作中の〈私〉同様、吃音であるなど共通点があり、実際の事件に仮託してはいるが、事実はあくまで創作の契機と素材をあたえたにとどまり、小説『金閣寺』は一個の文学作品であるから当然ではあるが、作中の人物はもとより、〈私〉の行動などは事実とはかなり異なる。一例として、終結部分で、〈私〉は生きようとして小刀とカルモチン催眠剤)を投げ捨てているが、林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。

なお、この終結部に関して三島は、小林秀雄から「どうして殺さなかったのかね、あの人を」と質問され、〈小説で人を殺した経験は大分ありますが、どうも人を殺すのはむつかしい〉、〈生かすべき所で殺しちゃったり、殺すべき所で生かしちゃって、計画が齟齬したということがありますね。あれは殺しちゃったほうがよかったんですね〉、〈でも、ぼく、人間がこれから生きようとするとき牢屋しかない、というのが、ちょっと狙いだったんです〉と語っている[11]
文体・自己改造


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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