金鍾泌
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「キム・ジョンピル」はこの項目へ転送されています。サッカー選手については「金鐘必」をご覧ください。

韓国政治家金鍾泌
???
金鍾泌(1999年)
生年月日 (1926-01-07) 1926年1月7日
出生地 日本統治下朝鮮 忠清南道扶余郡外山面盤橋里[1]
没年月日 (2018-06-23) 2018年6月23日(92歳没)
死没地 韓国 ソウル特別市龍山区
所属政党民主共和党新民主共和党民主自由党自由民主連合   
大韓民国国務総理
内閣第1次金鍾泌内閣
在任期間1971年6月4日 - 1975年12月18日
内閣第2次金鍾泌内閣
在任期間1998年3月3日 - 2000年1月12日
元首朴正煕
金大中
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金鍾泌
各種表記
ハングル:???
漢字:金鍾泌
発音:キム・ジョンピル
日本語読み:きん しょうひつ
ローマ字:Gim Jong-pil/Kim Chong-p'il
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金 鍾泌(キム・ジョンピル、きん しょうひつ[2]1926年大正15年)1月7日 - 2018年6月23日[3])は、韓国政治家忠清南道扶余郡出身[4]本貫金海金氏キリスト教徒[5]日本名は金村俊英(かねむら としひで)[6]、号は雲庭(ウンジョン、??)。略称は「JP」。金泳三(YS)・金大中(DJ)とともに韓国政治史上に三金時代を築いた。妻は朴正煕の姪・朴栄玉(パク・ヨンオク、???、朴正煕の兄の朴相煕の娘)。愛称はJPK。韓国のマスコミがJFKをもじってつけたもの。

35歳だった1961年に5・16軍事クーデターを朴正煕とともに主導し、朴正煕政権誕生の立役者となった。以降、朴正煕政権で初代中央情報部 (KCIA) 長、国務総理(首相)など要職を歴任。しかし、1970年代半ばからは家宅押収捜索など政界引退レベルの難しい時期を過ごした。1979年の朴正煕暗殺以後は議会の有力政治家に再び復帰したかったが、1980年に新たにクーデターを引き起こした新軍部によって「権力型不正蓄財者第1号」と指定され、弾圧される側となった。1984年に渡米し、1986年に帰国後、新民主共和党を結成した[7]

1990年2月、民主正義党統一民主党・新民主共和党の3党合流により発足した民主自由党の代表委員になった[7]。しかし、彼を軍部出身だと嫌悪していた民主派の金泳三派に党内権力闘争で押されて徹底した非主流となって、1995年に離党して自由民主連合を結成した。1997年には、朴正煕の最大の政敵であった金大中との連合(DJP連合(朝鮮語版))により大統領選挙での金大中の当選に貢献し、翌1998年に発足した金大中政権でふたたび国務総理を務めた。

政治姿勢は自らの主義主張を前面に出していくタイプではなく、韓国の政治家としては珍しい和を重視する調整型タイプの政治家であり、内外両面で大きく揺れた1960年代?1990年代の韓国政治において内外面において重鎮として先頭に立ち問題の沈静化に積極的に動いた。国会議員も9期(第6?10・13?16代)を務めた[5]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}クーデター軍人の出身だがそれなりの民主主義の信念があり、議院内閣制を死ぬまで追求した。本人が議院内閣制であった第2共和国をクーデターで滅ぼした人であることを勘案すれば皮肉だが、このため独裁を追求した朴正煕にも牽制され、とにかく大統領制が確固たる韓国では結局自分の意を成すことができなかった。[要出典]
人物日本訪問中の金鍾泌(1962年2月)[8]岸信介と金鍾泌(1962年10月)

1926年1月7日、忠清南道扶余郡外山面盤橋里で生まれる。現在の扶余小学校、公州中学校、公州高校を卒業。

子供のころは、大の読書好きで、特に菊池寛の小説が好きだったという。そのことから、一時は日本の中央大学への進学を志して、1944年に単身日本へ渡ったが、日本は戦況の悪化に伴う深刻な食糧不足に苛まれており「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」と朝鮮半島へ戻り、ソウル大学へ進学したというエピソードがある[9]

首相時代から知日派として知られ、韓日議員連盟の役員を長期間務め、日韓基本条約締結に尽力するなど日韓関係の修繕良化に努めた。日韓基本条約締結の際には、反対運動を展開する学生グループと直接話し合いの場を持ち「今は過去の問題よりこれからの成長の方が重要である。そのためには日本の援助が必要だ」と説いて学生からも一目置かれたという逸話もある[10]。しかし金自身も後年のインタビューで対日請求権の放棄については「やむを得なかった」と述べている。金大中事件の際には来日し事件が起こったことに関して謝罪している。しかし真相究明に対する協力は拒否した。日本政府側は金の謝罪を受け入れ同事件の政治決着を表明した。詳しくは金大中事件を参照。

引退後の講演で「大好きな日本」と韓国の政治家としては異例の「親日」的な発言をしているが、同じ講演で日本の首相の靖国神社参拝を批判している。安易に親日・反日でくくることのできない人物である。在日韓国人問題では「二世、三世は日本国籍を取得すべきだ」と日本の保守系月刊誌である『諸君!』1980年4月号のインタビューで発言し物議を醸した事がある。同記事では「日本は原爆を落とされたからソビエトの牙城にならずに済んだ」という見解を示し、また「朝鮮民主主義人民共和国は自由とは程遠い。日本の人はもし行けば三日と持たないんじゃないか。離散家族にも会わせてもらえない」と当時の日本では異例の北朝鮮批判を行い注目を集めてもいる。青山学院大学から名誉博士号(国際政治学)の称号を授与されている。

2004年総選挙で落選後、政界を引退した。しかし、2007年大統領選挙では李明博候補支持を表明、ハンナラ党に入党し名誉顧問に就任した[11][12]2008年12月14日に頭痛の症状を訴えてソウル市内の病院に入院し、12月19日脳卒中の初期症状と発表された[13]。翌2009年3月12日に退院した[14]


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