金鈴塚古墳
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金鈴塚古墳


金鈴塚古墳墳丘
現在も残っている後円部墳丘の一部
所在地千葉県木更津市長須賀
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度23分14秒 東経139度55分58秒 / 北緯35.38722度 東経139.93278度 / 35.38722; 139.93278
形状前方後円墳
規模墳長約100メートル、二重の周濠を含めると全長約140メートル
埋葬施設無袖式横穴式石室、緑泥片岩製石棺 木棺
出土品純金製鈴5、飾大刀17、金銅製馬具、金銅製飾履、金銅製耳輪、琥珀製棗玉、メノウ製勾玉、水晶製切子玉、ガラス玉、鏡、銅鋺、鉄矛、鉄鏃、土師器須恵器
築造時期6世紀末 - 7世紀初頭
被葬者馬来田国造
史跡県史跡
有形文化財出土品、石棺は重要文化財に指定
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}金鈴塚古墳
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金鈴塚古墳(きんれいづかこふん)は、祇園・長須賀古墳群[1]に属する千葉県木更津市長須賀にある前方後円墳である。
古墳の概要

金鈴塚古墳は墳丘の全長約100メートルの前方後円墳である。かつては二子塚古墳と呼ばれていたが、1950年に行われた発掘の結果、未盗掘であった横穴式石室内から金製の鈴5つを始めとする多くの貴重な遺物が出土し、金鈴にちなみ金鈴塚古墳と改名された。

出土品の内容などから金鈴塚古墳は6世紀末 - 7世紀初頭、前方後円墳の最末期に造られた古墳であると見られている。被葬者は小櫃川流域の首長であり、馬来田国造との説がある。前方後円墳最末期の古墳としては全国有数の規模であり、横穴式石室の一部は加工された切石を使用しており、当時としては新しい技術も用いて築造されている。金鈴塚古墳と豊富な出土品は学術的な重要性が評価されており、古墳から発掘された金鈴などの遺物と石棺は1959年6月27日、重要文化財に指定された。また金鈴塚古墳の残存している墳丘は、1950年11月3日に千葉県の史跡に指定されている。
古墳の立地

金鈴塚古墳は小櫃川によって形成された海抜約5.5メートルの沖積平野上にある。平野にはかつて砂丘であった微高地が何列か連なっており、金鈴塚古墳もそのようなかつては砂丘であった周囲よりも高くなっている場所を選んで築造された[2]。昔の砂丘から外れた古墳の周囲には低湿な土地が広がり、かつては主に水田や蓮田に利用されていた。そのため古墳の墳丘は低湿な土地の埋め立てに利用されてしまうこととなった[3]

金鈴塚古墳は明治末には古墳と見なされており、二子塚古墳と呼ばれていた。当時の地主の手によって墳丘上には古墳の主を祭る祠が建てられていた[4]。しかし1876年4月に作成された地籍図を見ると、金鈴塚古墳の一部は既に畑となっていて、明治初年には古墳の原形は崩され始めていたことがわかる[5]。その後も周辺の低地の埋め立てに古墳の盛り土が用いられ続けたため、墳丘の大部分が失われてしまい、1950年に行われた発掘当時には、前方部がほとんど無くなっていてさながら円墳のようになっており、築造当初どのような形の古墳であったのかがわからなくなっていた。

1950年の発掘後も木更津市の都市化によって古墳の墳丘は崩されていき、わずかに残っていた前方部全てと後円部の一部が消失し、現在、金鈴塚古墳の墳丘は横穴式石室周辺である後円部の一部のみが残り、あとの部分は主に宅地となっている。
祇園・長須賀古墳群と金鈴塚古墳

金鈴塚古墳が所属する祇園・長須賀古墳群は、小櫃川下流域で5世紀前期から中頃から古墳の造営が始まったものとされる[6]。祇園・長須賀古墳群で最初に造営された古墳は 墳長約130メートルと推定される高柳銚子塚古墳であり、その後5世紀末から6世紀前半にかけて中断があったものの、7世紀半ばに至るまで古墳が造られた[7]。その中で金鈴塚古墳は6世紀末から7世紀初頭、祇園・長須賀古墳群の中で最後の前方後円墳として造営されたものと見られている。この頃、全国的に見ても前方後円墳の築造は終了の方向へ向かっており、金鈴塚古墳は最後の前方後円墳の一つとされる[8]

祇園・長須賀古墳群では、6世紀後半から7世紀初頭にかけて特に盛んに古墳が造られており、金鈴塚古墳のような墳丘長100メートル程度の古墳、そしてひと回り小さな前方後円墳、円墳といった古墳が同時期に造られている。つまり祇園・長須賀古墳群は古墳群の中に階層が見られ、金鈴塚古墳は古墳群内の盟主墳の一つであったとされる。金鈴塚古墳とほぼ同時期に造られた古墳としては、金鈴塚古墳の北東約700メートルの場所に造営された全長70メートル程度の前方後円墳である丸山古墳が挙げられる[9]

ちなみに金鈴塚古墳の後、祇園・長須賀古墳群では方墳である松面古墳が造営されたとみられている。前方後円墳の造営終了後に方墳の造営がなされる点は、祇園・長須賀古墳群に隣接する富津市小糸川下流域にある内裏塚古墳群や、埼玉県埼玉古墳群などの関東地方の有力古墳群に見られる特徴である。
古墳の構造金鈴塚古墳の石室

金鈴塚古墳は1946年に米軍が撮影した航空写真や、1950年に行われた発掘の結果、更には1998年から2003年にかけて、古墳近隣の建設工事などの際に行われた範囲確認調査の結果から、西に前方部、東に後円部がある墳丘長約100メートルの前方後円墳であることが明らかとなった。墳丘の周囲には二重の周濠があって、周濠まで含めた全長は約140メートルと推定されている[10]。周濠の深さは墳丘をめぐる内側の周濠は約1メートル、外側の周濠は内濠よりもやや浅かったものとの推定がある[11]

墳丘については現在約3.5メートルの高さがあるが、1950年の発掘報告書では、石室に流入した土砂の量などから築造当時は6メートル程度の高さがあったものと推定された。金鈴塚古墳はその面積の割に墳丘の高さは低かったものと見られている[12]


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