金 達寿
(???:キム タルス / キム ダルス)
『新日本文学全集 第13巻』(集英社、1965年3月)
ペンネーム金達寿, 大澤達雄, 金光淳, 朴永泰, 孫仁章, 金文洙, 白仁
誕生金達寿
1919年11月27日(太陰暦)・1920年1月17日(太陽暦)
朝鮮慶尚南道昌原郡内西面
金 達寿(キム・タルス/キムダルス、???、1919年11月27日(太陰暦)・1920年1月17日(太陽暦)- 1997年5月24日)は、在日朝鮮人小説家・古代史研究家。北朝鮮・朝鮮総連を強く支持していたものの、実態を知り、1981年に韓国訪問以降は第三者の立場を取った[1]。
経歴・人物
朝鮮慶尚南道昌原郡内西面虎渓里(現昌原市馬山会原区)に、中農の地主の三男として生まれる[2]。父・金柄奎、母・孫福南、長兄・金声寿、次兄・金良寿、妹・金ミョンス[3]。
父・金柄奎が遊蕩に耽り、破産[4]。金達寿が5歳の時、両親は長男金声寿と妹金ミョンスを連れて、内地に渡る[5]。金良寿・金達寿は祖母と暮らすが、1928年頃に良寿が病死、次いで内地からの父親の訃報が伝えられる[6]。以後、金達寿は祖母と二人で極貧生活を送る[7]。
10歳の時、金声寿に連れられて、内地に渡る[1][8]。祖母は娘の嫁ぎ先に引き取られたが、数年内に死去する[8]。
1931年、大井尋常夜学校1年生に入学し、読み・書き・算術という簡単なものであるが、初めて日本語で教育を受ける[9]。32年末、東京府荏原郡源氏前尋常小学校3年生に編入[10]。5年生まで過ごすが、6年生に進級したところで貧困のため退学[11]。以後、苦学しながら独学で文学を学んだ。その過程で志賀直哉の小説に出逢い、大きな影響を受ける[12]。
日本大学専門部芸術科在学中の1940年に最初の作品「位置」を発表し、その後も大学の雑誌や『文芸首都』に小説を発表する。1941年12月に卒業後、1月20日に神奈川日日新報社の社会部記者となる[13]。1942年2月に同社は同業他社と合併し、神奈川新聞社となる。在職中、日本人女性と恋愛するが、意識の違いに耐えられず、1943年春、衝動的に京城に旅行し、強引に京城日報社に入社するとともに、日本人女性に離別の手紙を書く[14]。しかしその後、京城日報社が朝鮮総督府の御用新聞社であることを知り衝撃を受け、1944年2月に神奈川に戻り、1月ほど後に神奈川新聞社に復社する[15]。
本格的な文学活動は、第二次世界大戦終戦後の1946年4月から『民主朝鮮』に連載を始めた長編小説『後裔の街』に始まる。骨太な文体で書かれたその作品は「朝鮮的なるもの」「民族的なるもの」を軸とし、日本人に対して痛烈な戦争責任を突きつけるものとして、思想を支持する日本人と在日朝鮮人の両方からは高い評価を受けた[16]。以後、『玄海灘』(『新日本文学』1952年1月-1953年11月。1954年1月刊)?『太白山脈』(1969年)へと展開した。ただし金達寿自身は、『玄海灘』執筆中に自分の文学の限界を痛感し、志賀の文学を通じて学んできた自然主義リアリズムとの文学的闘争を開始した[17]。
戦前の1941年から『文芸首都』の同人となり、戦後は1946年10月に新日本文学会会員となった[18]。