金解禁(きんかいきん)、あるいは、金輸出解禁(きんゆしゅつかいきん)とは、金貨及び金地金の輸出許可制を廃止して金本位制に復帰すること。あるいは、流通貨幣(略称:通貨)の発行国が、本位貨幣(正貨)に戻ること。
日本においては、1930年(昭和5年)に濱口内閣によって行われた金解禁[1]を指し、それに加えて翌年の犬養内閣による金輸出(再)禁止[2]に至る一連の経済政策をまとめて指すこともある。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本においては新貨条例制定前から、伊藤博文や吉田清成といった金本位制を主張する勢力がくすぶっていた。当時のお雇い外国人や今日の研究は、世界的潮流であった銀本位制の方がイギリスほど豊かでなかった国情に相応しかったと考えている。[要出典]
本項においては金解禁停止(金輸出禁止)のきっかけとなったドル買事件(ドル買問題)についても併せて解説する。 主要国の金輸出禁止期間(1914年から1930年まで記載)国名1415161718192021222324252627282930 第一次世界大戦以前の主要国はほとんどが金本位制を取っており、兌換紙幣を自由に金に交換することが可能であった。ところが、大戦勃発後、金の国外流出が危惧されるようになり、1917年(大正6年)9月10日にアメリカが金への兌換
第一次世界大戦後の金解禁問題
(参照)第一次世界大戦7月 11月
イタリア王国8月 12月
フランス(第三共和政) 7月 6月
ドイツ帝国( - 1919年) /
ヴァイマル共和国(1919年 - ) 11月 10月
アメリカ合衆国(48州) 9月 7月
大日本帝国 9月 1月
グレートブリテン及びアイルランド連合王国 4月 4月
これはあくまでも一時的な措置で、戦争が終われば直ちに解除される性質のものであった。事実、アメリカは2年後の大戦終結直後に金輸出を再開した。また、1922年(大正11年)4月10日から同年5月19日まで開催されたジェノア会議において、先進各国が一刻も早く金本位制へ復帰するように求める決議も出された。
だが、当時の日本の立憲政友会政権(原内閣・高橋内閣)は、国内に対する積極財政政策と北洋軍閥の北京政府支援のために大量の借款が必要となるという観測から金解禁を先送りした。この間、貿易収支は大幅な赤字となり、為替相場は当時の平価とされた100円=49.875ドル(1ドル=2.005円)を大幅に下回った。このため、高橋是清(大蔵大臣、後に内閣総理大臣を兼務)は、国外にある日本政府保有の金を売却してこれを戻そうと試みたが、それにも限界があった。そこで、高橋に替わって大蔵大臣となった市来乙彦(加藤友三郎内閣)は、金解禁を検討した。しかし、帝国議会で、立憲政友会は金解禁を時期尚早とし、対する憲政会は国際協調を重視して早期解禁を主張して対立した。さらに、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災とそれに伴う金融措置の必要から、金解禁は先延ばしにされた。震災は大幅な円安と過度な輸入を招いて、経済混乱に拍車をかけた。このような中で、1926年(大正15年)1月に成立した憲政会・第1次若槻内閣の大蔵大臣片岡直温は、金解禁の断行を公約として、その障害となる震災手形の処理を行おうとした。だが、この対応の拙さが1927年(昭和2年)の金融恐慌を招き、政権は再び政友会の田中義一内閣に移って積極財政路線が復活。為替相場は乱高下を繰り返したのである。 1928年(昭和3年)に入り、フランスが金解禁を行うと主要国でこれを行っていないのは日本のみとなり、内外からの批判を浴びた。また、為替相場の不安定ぶりに悩まされた金融界と貿易関係の業界からは、金解禁を行って為替相場を安定させることを望む声が上がり、10月22日東京・大阪の両手形交換所と東京商工会議所からは「金解禁即時断行決議」が政府に対して突きつけられた。
高まる金解禁要求