金羊毛騎士団
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金羊毛勲章
金羊毛勲章(頸飾)
火口金と火打石の意匠が連なり、中央に羊が吊るされている
スペイン国王およびハプスブルク家家長による栄典
種別騎士団勲章
標語Pretium Laborum Non Vile
我らの働きに報償に値しないものはない
創設者フィリップ3世
状態存続
主権者(西)フェリペ6世
主権者(墺)カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
地位騎士
歴史・統計
創立1430年 (594年前) (1430)

金羊毛騎士団(きんようもうきしだん、フランス語: Ordre de la Toison d'or、スペイン語: Orden del Toison de Oro、ドイツ語: Orden vom Goldenen Vlies、オランダ語: Orde van het Gulden Vlies、英語: Order of the Golden Fleece)は、ブルゴーニュ公フィリップ3世によって創設された世俗騎士団スペイン王国最高位の騎士団勲章として現存し、オーストリアでもハプスブルク家による名誉として存続している。

英語に基づいてゴールデン・フリース騎士団、フランス語に基づいてトワゾン・ドール騎士団とも呼ばれる。
概要創設者フィリップ善良公騎士たち

1430年に、フィリップ善良公(ル・ボン)がポルトガル王女イザベルと結婚する際に、イングランドガーター騎士団に倣って作られた。聖アンデレ(サン・タンドレ)を守護聖人とし、異端を排除してカトリックを守護することを目的の1つにしており、宗教改革時にはメンバーをカトリックのみに限定していた。騎士団集会が開催された際には、当時の騎士団員全員の紋章を描いた板絵が描かれている。これはフランデレン地方を中心として複数の教会に残されており、金羊毛騎士団はブルゴーニュ貴族の身分、地位及びアイデンティティの象徴となった[1]

フィリップ善良公の孫娘で、ヴァロワ=ブルゴーニュ家最後の君主となったマリー女公ハプスブルク家マクシミリアン(後、神聖ローマ皇帝)と結婚したことで、同家の君主が騎士団主権者となった。16世紀にかけてハプスブルク家の勢力拡大により、権威が増大していった[2]

ハプスブルク家は、スペインとオーストリアに分かれ、1700年にカルロス2世が崩御してスペイン・ハプスブルク家が断絶する。スペイン継承戦争を経て、王朝がブルボン朝に代わったため、騎士団もまたスペインオーストリアに分かれた[3]

スペインとオーストリアで、勲章の形が異なる。スペインは君主制廃止と王政復古を繰り返しつつ、今日も同国最高位の勲章として存続している。一方、オーストリアは第1次世界大戦後のオーストリア革命により帝政が廃止され、金羊毛騎士団の地位や勲章は政府や君主公認ではなくなった。しかし、最後の皇帝カール1世の子孫が引き続き主権者を務め、カトリック諸国での権威を保っている[3]
標語と意匠

モットーは「Pretium Laborum Non Vile」(我らの働きに報償に値しないものはない)。

名称はギリシア神話イアソンの物語(金羊毛)と、旧約聖書士師記ギデオンの物語に由来している[4][5]。これはフィリップ善良公が、十字軍を想定していたからである[1]。当初はイアソンのみだったが、ギリシャ神話、すなわち、カトリック教会から見て異教を由来にしていることが好ましくないとされ、後からギデオンの物語が理由づけされた[6]

なお「金羊毛皮」は錬金術の達人の象徴でもある。ただし、善良公が何故、金羊毛を意匠に定めたかは、騎士団規約にも記載がない[注釈 1][8]

衣装は、銀鼠色の縁取りが施された膝丈の真紅のローブに、同じく真紅のマントであり、マントには火口金と火打石の文様が施された[9]。この意匠はフィリップ善良公がジャン無怖公(サン・プール)より継承したもので、敵対するオルレアン家の紋章である棍棒を削り、さらに燃やすという標語に由来する[10]
騎士団規約と集会

騎士団規約は、1431年11月30日の第1回騎士団集会に先立つ11月27日に公表された。当初は全103条から成り、騎士団の構成や、団員の義務をはじめ組織の運営に必要な事項が示されている[11]。これは紙の本として、団員に配布された[11]。1446年に発布された新規約は、特に大きな改定がなされている[11]。全94条になり、66条の団員・団長の規定と28条の役職者の規定の二部構成になった[11]

金羊毛騎士団の旧規約と、同時代のガーター騎士団の規約を比較すると、組織の枠組み等に類似点が見られる[12]。一方、相互扶助や総会、団員選出等については、独自性が見られる[12]

騎士団規約に基づき、聖アンデレの祝日である11月30日に団長が指名する都市で、『騎士団集会(総会)』(chapitre)が開かれる[4]。後に、3年毎5月2日に変更された[4]。宗教行事を中心に、騎士団の査問、裁判、新団員選出が1週間から1か月にわたって行われ、ブルゴーニュ公国の壮大華麗な儀式の一つとなった[4]。集会は公国の他の催し事と並行して開かれることもしばしばで、その華麗さは欧州諸侯の羨望の的であったという[13]
歴史
創設の背景
国内情勢

1424年ブルゴーニュ公国の若き君主フィリップ善良公は、エノー、ホラント、ゼーラントの3伯領を巡り、カンブレー二重結婚を根拠として継承を主張した。その結果、ジャクリーヌ・ド・エノー及びその夫グロスター公ハンフリーと抗争が起こる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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